温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
黒衣の少女
――真夜中のこと。晴は布団にも入らず、狭く汚い部屋の隅で蹲っていた。
晴の瞳には、雫に依頼に行ったときのギラつきはなく、頼りなげに揺れている。
この一週間、悪夢が頭から離れなかった。
目的は果たされた。
ようやくあの女を見つけ出して殺したというのに、どうしてこんなに満たされないのだろう。
どうして震えが止まらないのだろう。
あの女の幻が、もういないはずのあの女が、毎晩暗闇の中で晴を見ている。
恨めしそうに、口から血を流して。
「どうしてどうしてどうしてどうして……」
嘘までついて、魔女にまで頼って、やっと見つけたのに。
晴を捨てた母親。
憎くて憎くて仕方なかった母親。
ようやくこの手でその息の根を止めてやれた。あの世で後悔すればいい。
……そう思っていたのに。
悲願だったあの女を殺しても満たされないということは、まだ終わっていないのだろうか。
「そうか……」
きっとあの女の連れの男と子供も殺さないと、この気持ちは晴れないのかもしれない。
晴が祖母だと偽って雫に居場所を教えてもらった草間有美は、実際は晴自身の母親だった。
草間有美の住所は高級マンションで、既に別の家庭を持って幸せそうに暮らしていた。
晴を捨てたくせに、晴を不幸にしたくせに、自分だけのうのうと裕福で幸せな生活を送っていたなんて、許せない。
あの女の傍らには、優しそうな旦那と可愛らしい息子が寄り添っていた。
許せない。
その場所には本来、晴がいるべきだったのだ。
奴らが居場所を奪おうとするなら、すべてをぶち壊してやる。幸せの絶頂から不幸のどん底へ突き落とされる苦しみを味わわせてやる。
晴は雫から渡された茶封筒をみつめ、覚悟を決めたように立ち上がった。帽子を目深に被り、マスクと眼鏡をかけてアパートを出る。
晴は空を見上げた。藍色のカーテンをまとった空には、星がぽちぽちとまばらに瞬いている。しかし、夜の王であるはずの月は見当たらない。
「……ああ、そうか。今夜は新月なのか」
晴は彼らの住むマンションへ急ぐ。
茶封筒の中には、有名な高級マンションの名前。きっとセキュリティは厳重で、部外者は容易には入れないはずだ。
けれど、今の晴にそんなことを冷静に考える余裕はなかった。
人気のない路地を足早に歩いていると、不意に人の気配を感じた。晴は立ち止まる。
――コツ、コツ、コツ、コツッ。
背後から、誰かの足音。
ドクンッと、鼓動が早鐘を打つ。
誰だろう。
こんな真夜中に。
――コツコツコツコツッ……。
足音は容赦なく、どんどん大きくなる。比例するように、晴の心音も大きくなっていく。
「おはよう、哀れな人間様――」
背後でいきなり声が響き、身体中が粟立つように跳ねた。
晴はバッと振り返る。
そこには、ゾッとするほど美しい女が立っていた。黒衣のワンピースをまとい、腰にはその細さを強調するような真っ赤なリボンが巻き付けられている。
黒衣の襟は彼女の白い顔を覆ってしまうほど大きく、細く長い足には、腰のリボンと同じ色のヒールの高いブーツを履いていた。
「だ……誰だ!」
「おっと、こんな美人をもう忘れるとは。なかなかに愚かな奴だ」
黒衣の少女は赤い瞳をスッと猫のように細めた。
その顔には見覚えがあった。
「あっ……あなた、は……願い屋の」
晴は青ざめながら、一歩後退る。
少女の容姿は、雫と瓜二つだった。但し、挑発的な赤い瞳と、瞳と同じ色のリボンブーツを履いた両足ですくっと立っている点だけを除けば。
「ふ、双子……?」
「私は英アゲハ。対価の取り立てに来たんだよ」
「対価? ……ああ、そういえば」
金の請求に来ただけらしい。だからといって、わざわざこんな真夜中に来なくてもよかろうに。
「いくらだ? 悪いが、今は急いでいるんだ、後にしてくれないか。ちゃんと払うから」
今は、奴らを殺すことが先だ。金を払ってる場合じゃない。そもそも晴は今、金など持っていない。
「金じゃない」
アゲハと名乗った黒衣の少女は長い髪をかき上げ、高慢な口調で言った。
「金じゃない……?」
しかし依頼したとき、彼女はたしかに金が対価だと言っていたように思うが。
「じゃあ、なんだ?」
アゲハは晴へ、黒い封筒を差し出した。
「ほれほれ。追加分の資料だよ。雫から渡すよう頼まれたんだ」
晴は恐る恐るそれを受け取り、中を見る。
今夜は新月の夜で真っ暗だというのに、なぜか資料の細かい文字まで、はっきりと理解することができる。
「なんだよ……これ」
晴は目を見開き、食い入るようにその資料を見つめた。
そこには、衝撃の真実が記録されていた。
「おい! なんだよ、これ!? どういうことだ! こんなの……こんなの、最初の資料には書かれていなかったぞ!?」
取り乱した晴を見て、アゲハは鼻で笑った。
「自業自得だろ。嘘をつくからこうなるんだよ」
晴の顔面から血の気がさらに引いていく。
「嘘……気付いてたのか?」
アゲハの彫刻のように整った青白い顔が暗闇に浮かぶ。晴は動揺で声を上ずらせながら、アゲハに詰め寄った。
「雫はちゃんと言っただろう? 居場所を教えるだけでいいのかって」
晴の耳元で、アゲハの声が木霊する。
「嘘だ……そんな……」
晴は膝から崩れ落ちた。そんな晴を、アゲハは冷たい表情で見下ろした。