温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
「これは嘘をついた対価だ。お前は魔女に嘘をついた」
アゲハの声は雫のそれと同じなのに、雫とはまったく違うように思えた。無機質な機械のような、温度を感じられない深い海の底の泡のように冷たい声だった。
アゲハがゆらりと手を上げる。同時に黒衣が蝶の羽のようにふわりと揺れた。
「お前は嘘をつき、雫に依頼をした。お前の実際の年齢は三十五歳。大学生でもなんでもない、ただのフリーターだ」
アゲハの演劇じみた独白に、晴は息を呑む。
「な、なんでそこまで……」
アゲハは笑う。
「魔女をナメるなよ」
「こんなの卑怯だろ! 知ってて教えないなんて、そんな……詐欺だ!」
「お前が探して欲しいと言った草間有美は、幼い頃に晴を捨てて行方をくらましていた実の母親だった」
アゲハは激高する晴にはかまわずに話し出した。
「実際、草間有美はお前を産んだ後、一人で必死に育てていた」
子供の頃の晴は病弱で、有美は傍を離れられなかった。結果働くことができず、すぐに生活は立ち行かなくなった。
頼れる人はいない。自治体に相談しても大した援助はしてもらえなかった。
有美が途方に暮れていたとき、有美の幼馴染が突然顔を出した。幼馴染の男はとても裕福な家で、ずっと有美に片思いをしていたという。
有美が困っていることを知り、訪ねてきたのだ。
自分の妻になれば、その子供を不自由なく育ててやれると。
有美はそれを信じ、晴のためにその男と結婚した。しかし、その家庭で新しく子供が産まれると、途端に男は晴を邪魔者扱いした。
有美の目を盗み、晴は男の手によって捨てられ、遠く離れた離島の施設へ預けられることになった。
男は有美に、晴は事故に巻き込まれて死んだと嘘をついた。
遺体もないまま葬儀まで執り行われ、有美はすっかりそれを信じていたが、あるとき男が晴を捨てたことを他人に話しているところを目撃し、それから必死に密かに晴を探し続けていた。
「あぁ、なんて可哀想な母親だろう。いなくなってからも変わらず愛し続けていた息子に殺されるなんて」
アゲハは泣き真似をしながら、空を見上げる。上を向いたアゲハとは対照的に、晴は膝から崩れ落ちた。
「嘘だ……嘘だ嘘だっ!」
真実を知った晴の嗚咽が、暗い夜空に溶けていく。
晴は涙に濡れる瞳で、アゲハの足元を見た。そこには耳の尖った大きな瞳の生き物がいる。
「きゅ」
晴の視線に気付いたアゲハが、「あぁ。これは私の相棒。フェネックのてまりだよ。よろしくー」と紹介した。
アゲハはゆっくりとしゃがみ込み、晴の耳元で囁いた。
「どうする? 君は無実のお母さんを早とちりで殺しちゃったわけだけど」
晴は地面へ着けた拳を、ぎゅっと握る。
「お願いします……どうか、母を生き返らせて。雫さんに会わせて下さい。どうか、お願いします」
晴は涙を流しながら、土下座してアゲハに頼んだ。
「残念だけど、雫は嘘つきのお前の顔はもう見たくないそうだよ」
「そんな……お願いします!」
晴は泣きながら地べたに這いつくばって懇願する。
「――うーん。仕方ないなぁ」
アゲハがニヤリと口角を上げた。
「じゃあ、私が叶えてやるかぁ」
「あなたが!?」
「私も雫と同じ魔女だからね。君の願いを叶えてやることはできるよ」
「ほっ……本当に!?」
晴の瞳が輝く。
「但し、雫より対価は高いよ。なんせ二度目だ。それでも良ければ、草間有美を生き返らせてやろう」
「そ、その対価は……」
ごくりと喉を鳴らし、晴がアゲハを見る。見つめ合ったのは、たかだか数秒。しかし、晴にはその時間がまるで永遠のように長く感じた。
額に吹き出した汗が、たらりとこめかみを滑っていく。
アゲハは人差し指をツンと突き出し、晴の胸を指した。
「君の命、一択」
「!」
晴が目を見開く。
「さぁ、どうする?」
ニヤリと笑うアゲハを見上げ、晴は黙り込んだ。バクバクと己の心臓が激しく鳴る。それは、晴に生きたいと強く訴えているようで。
「俺の……命」
これまで、ずっと我慢の繰り返しだった。親に捨てられてから施設で育ち、金もなく、ずっと馬車馬のように働いた。それでも、学歴のない晴にとって生活は苦しくて、地べたを這いつくばるような毎日。
「命を蘇らせるには、同じ命をもらうのが本当の対価だろう?」
それもこれも、すべて親がいないせい。母親のせい。募りに募った恨みから、ようやく開放されたと思ったのに……。
黒衣の少女を見る。
アゲハは鼻歌を歌いながら、蝶のように黒衣を翻し、踊っていた。漆黒のスカートが翻るさまは、まるで蝶の羽根のよう。羽根のようなスカートの裾からは、小さな星の光が生まれている。
「……わかった」
晴が目を伏せ小さく呟くと、アゲハは満足そうに踊りをやめて笑った。
「ここに願いごとを」
アゲハは、手に持った漆黒の短冊を晴に差し出す。
『草間有美を生き返らせてほしい』
願いごとを書き終わると、アゲハの赤い瞳がじんと光り、突風が晴を包んだ。
晴は思わず目をギュッと瞑った。
これでいいのだ。
これまでずっと晴の中にわだかまっていた燻りは、あの資料を読んだ瞬間に霧が晴れるようにあっさりと消えた。心がまるで羽のように軽い。
できるなら、一緒に暮らしてみたかったけれど。本音で話してみたかったけれど。「母さん」と呼んでみたかったけれど。
この悲劇のすべては自分の行動が招いたこと。これでなにもかもが元通りになる。
晴が命をかけるなら、これからの生涯を考えても今ここしかないだろう。
なにかが、晴の頬に触れる。うっすらと目を開くと、すぐ目の前にアゲハがいた。アゲハは晴の頬を包み込むように両手でなぞる。
二人を漆黒のレースが包む。
――そして。
「目を開けて」
アゲハのしっとりとした艶のある声が、晴の耳元で響いた。晴は恐る恐る、瞑っていた目を開く。
すると、そこにはついこの間晴がその手で殺した母親――草間有美の姿があった。有美は死んだように目を瞑って、ピクリともしない。
「か……母さん! 母さん!」
それは、晴が記憶にある限り、一度も言ったことのなかった言葉。
必死に漆黒のレースを掻き分け、その隙間から母を呼ぶ。
「母さん!」
ピクリと有美の瞼が揺れ、ゆっくりと開かれた。
「母さん!」
その声に、有美がレースに囚われた晴を見る。
「……晴? もしかして、晴なの?」
有美が目を見張って晴へ呼びかける。
「ごめん……母さん。俺、母さんのこと、なにも知らないで、ずっと恨んでた。俺は捨てられたんだって、俺が不幸になったのは、全部母さんのせいなんだって、勝手に思い込んで……ごめんなさい。ごめんなさい、母さん」
晴の顔は既に涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「母さんがずっと探してくれてたなんて、俺、知らなくて……」
晴はレースを掴み、有美へ訴える。有美はぶんぶんと首を強く振った。
「晴、違うの。悪いのはあの人を信じてしまった私。あなたを見つけられなかった私なの。ごめんね、ごめん。愚かなお母さんを許して」
有美は涙を流して、晴へ震える手を伸ばす。しかし、その手はレースに阻まれ晴に届くことはない。
「母さん……産んでくれてありがとう」
「待って、晴? 晴!」
「大好きだ。最期に会えてよかった」
「晴っ!」
晴は泣きながら笑いかけ、そして漆黒のレースとともに消えていった。その場に残ったのは、ビー玉程の大きさの赤い水晶玉ひとつだけだった。
アゲハはそれを拾い上げ、黒衣のポケットにしまい込む。
「ごちそーさま」
アゲハは放心した有美をその場に残し、てまりを連れて闇に紛れて消えていった。
アゲハの声は雫のそれと同じなのに、雫とはまったく違うように思えた。無機質な機械のような、温度を感じられない深い海の底の泡のように冷たい声だった。
アゲハがゆらりと手を上げる。同時に黒衣が蝶の羽のようにふわりと揺れた。
「お前は嘘をつき、雫に依頼をした。お前の実際の年齢は三十五歳。大学生でもなんでもない、ただのフリーターだ」
アゲハの演劇じみた独白に、晴は息を呑む。
「な、なんでそこまで……」
アゲハは笑う。
「魔女をナメるなよ」
「こんなの卑怯だろ! 知ってて教えないなんて、そんな……詐欺だ!」
「お前が探して欲しいと言った草間有美は、幼い頃に晴を捨てて行方をくらましていた実の母親だった」
アゲハは激高する晴にはかまわずに話し出した。
「実際、草間有美はお前を産んだ後、一人で必死に育てていた」
子供の頃の晴は病弱で、有美は傍を離れられなかった。結果働くことができず、すぐに生活は立ち行かなくなった。
頼れる人はいない。自治体に相談しても大した援助はしてもらえなかった。
有美が途方に暮れていたとき、有美の幼馴染が突然顔を出した。幼馴染の男はとても裕福な家で、ずっと有美に片思いをしていたという。
有美が困っていることを知り、訪ねてきたのだ。
自分の妻になれば、その子供を不自由なく育ててやれると。
有美はそれを信じ、晴のためにその男と結婚した。しかし、その家庭で新しく子供が産まれると、途端に男は晴を邪魔者扱いした。
有美の目を盗み、晴は男の手によって捨てられ、遠く離れた離島の施設へ預けられることになった。
男は有美に、晴は事故に巻き込まれて死んだと嘘をついた。
遺体もないまま葬儀まで執り行われ、有美はすっかりそれを信じていたが、あるとき男が晴を捨てたことを他人に話しているところを目撃し、それから必死に密かに晴を探し続けていた。
「あぁ、なんて可哀想な母親だろう。いなくなってからも変わらず愛し続けていた息子に殺されるなんて」
アゲハは泣き真似をしながら、空を見上げる。上を向いたアゲハとは対照的に、晴は膝から崩れ落ちた。
「嘘だ……嘘だ嘘だっ!」
真実を知った晴の嗚咽が、暗い夜空に溶けていく。
晴は涙に濡れる瞳で、アゲハの足元を見た。そこには耳の尖った大きな瞳の生き物がいる。
「きゅ」
晴の視線に気付いたアゲハが、「あぁ。これは私の相棒。フェネックのてまりだよ。よろしくー」と紹介した。
アゲハはゆっくりとしゃがみ込み、晴の耳元で囁いた。
「どうする? 君は無実のお母さんを早とちりで殺しちゃったわけだけど」
晴は地面へ着けた拳を、ぎゅっと握る。
「お願いします……どうか、母を生き返らせて。雫さんに会わせて下さい。どうか、お願いします」
晴は涙を流しながら、土下座してアゲハに頼んだ。
「残念だけど、雫は嘘つきのお前の顔はもう見たくないそうだよ」
「そんな……お願いします!」
晴は泣きながら地べたに這いつくばって懇願する。
「――うーん。仕方ないなぁ」
アゲハがニヤリと口角を上げた。
「じゃあ、私が叶えてやるかぁ」
「あなたが!?」
「私も雫と同じ魔女だからね。君の願いを叶えてやることはできるよ」
「ほっ……本当に!?」
晴の瞳が輝く。
「但し、雫より対価は高いよ。なんせ二度目だ。それでも良ければ、草間有美を生き返らせてやろう」
「そ、その対価は……」
ごくりと喉を鳴らし、晴がアゲハを見る。見つめ合ったのは、たかだか数秒。しかし、晴にはその時間がまるで永遠のように長く感じた。
額に吹き出した汗が、たらりとこめかみを滑っていく。
アゲハは人差し指をツンと突き出し、晴の胸を指した。
「君の命、一択」
「!」
晴が目を見開く。
「さぁ、どうする?」
ニヤリと笑うアゲハを見上げ、晴は黙り込んだ。バクバクと己の心臓が激しく鳴る。それは、晴に生きたいと強く訴えているようで。
「俺の……命」
これまで、ずっと我慢の繰り返しだった。親に捨てられてから施設で育ち、金もなく、ずっと馬車馬のように働いた。それでも、学歴のない晴にとって生活は苦しくて、地べたを這いつくばるような毎日。
「命を蘇らせるには、同じ命をもらうのが本当の対価だろう?」
それもこれも、すべて親がいないせい。母親のせい。募りに募った恨みから、ようやく開放されたと思ったのに……。
黒衣の少女を見る。
アゲハは鼻歌を歌いながら、蝶のように黒衣を翻し、踊っていた。漆黒のスカートが翻るさまは、まるで蝶の羽根のよう。羽根のようなスカートの裾からは、小さな星の光が生まれている。
「……わかった」
晴が目を伏せ小さく呟くと、アゲハは満足そうに踊りをやめて笑った。
「ここに願いごとを」
アゲハは、手に持った漆黒の短冊を晴に差し出す。
『草間有美を生き返らせてほしい』
願いごとを書き終わると、アゲハの赤い瞳がじんと光り、突風が晴を包んだ。
晴は思わず目をギュッと瞑った。
これでいいのだ。
これまでずっと晴の中にわだかまっていた燻りは、あの資料を読んだ瞬間に霧が晴れるようにあっさりと消えた。心がまるで羽のように軽い。
できるなら、一緒に暮らしてみたかったけれど。本音で話してみたかったけれど。「母さん」と呼んでみたかったけれど。
この悲劇のすべては自分の行動が招いたこと。これでなにもかもが元通りになる。
晴が命をかけるなら、これからの生涯を考えても今ここしかないだろう。
なにかが、晴の頬に触れる。うっすらと目を開くと、すぐ目の前にアゲハがいた。アゲハは晴の頬を包み込むように両手でなぞる。
二人を漆黒のレースが包む。
――そして。
「目を開けて」
アゲハのしっとりとした艶のある声が、晴の耳元で響いた。晴は恐る恐る、瞑っていた目を開く。
すると、そこにはついこの間晴がその手で殺した母親――草間有美の姿があった。有美は死んだように目を瞑って、ピクリともしない。
「か……母さん! 母さん!」
それは、晴が記憶にある限り、一度も言ったことのなかった言葉。
必死に漆黒のレースを掻き分け、その隙間から母を呼ぶ。
「母さん!」
ピクリと有美の瞼が揺れ、ゆっくりと開かれた。
「母さん!」
その声に、有美がレースに囚われた晴を見る。
「……晴? もしかして、晴なの?」
有美が目を見張って晴へ呼びかける。
「ごめん……母さん。俺、母さんのこと、なにも知らないで、ずっと恨んでた。俺は捨てられたんだって、俺が不幸になったのは、全部母さんのせいなんだって、勝手に思い込んで……ごめんなさい。ごめんなさい、母さん」
晴の顔は既に涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「母さんがずっと探してくれてたなんて、俺、知らなくて……」
晴はレースを掴み、有美へ訴える。有美はぶんぶんと首を強く振った。
「晴、違うの。悪いのはあの人を信じてしまった私。あなたを見つけられなかった私なの。ごめんね、ごめん。愚かなお母さんを許して」
有美は涙を流して、晴へ震える手を伸ばす。しかし、その手はレースに阻まれ晴に届くことはない。
「母さん……産んでくれてありがとう」
「待って、晴? 晴!」
「大好きだ。最期に会えてよかった」
「晴っ!」
晴は泣きながら笑いかけ、そして漆黒のレースとともに消えていった。その場に残ったのは、ビー玉程の大きさの赤い水晶玉ひとつだけだった。
アゲハはそれを拾い上げ、黒衣のポケットにしまい込む。
「ごちそーさま」
アゲハは放心した有美をその場に残し、てまりを連れて闇に紛れて消えていった。