温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
うだる夏、僕の日常
僕には好きな人がいる。
その人の名前は英雫さん。
雫さんはいくつかの顔を持っている。
魔女であること。それから、僕のクラスメイトであること。……但し、不登校なので教室で会ったことはないけれど。
そして、彼女のさらにもうひとつの顔は、『願い屋七つ星』という店の管理人であること。
『願い屋七つ星』とは、文字通り願いを叶えることを生業とする。雫さんは魔女だから、どんな願いでも解決することができるのだ。
最近は僕も、彼女の仕事に付き添うことが多くなった。相変わらず、いつの間にか依頼を終えていることもしょっちゅうだけど。
時は初夏を迎え、寮から温室へ向かうだけの短い距離でも汗ばむ陽気となってきた。
「暑ー……」
名前も知らない鳥が、夏の暑さに賛美歌を贈る。
僕はそんな青い空の下を歩いていく。
昨日の夕立ちでできた水たまりが、僕を下から覗き込む。水たまりの端をわざと踏むと、青い空の下にいたもう一人の僕は波紋とともに消えていく。
温室に入り、秘密の螺旋階段を昇っていく。有毒植物のコーナーを抜け、小さな扉をくぐる。
――ずでん。
「いったたた……」
落ちると分かっていても、受身を取れないのだ。
なぜなら、僕には守るべきものがある。僕は両手で大切に持っていたバスケットの中身を確認する。
……よし、ロールケーキは無事だ。
「ムギちゃん!」
愛しい声に顔を上げれば、
「雫さん」
純白の車椅子に乗った美少女がいる。
雫さんは楽しそうに車椅子を魔法で動かして、僕の周りをくるくる回る。
「いらっしゃいいらっしゃい! 今日のスイーツはなんですか?」
「今日はチョコレートのロールケーキ……って、うわっ!?」
その勢いを利用して、雫さんの肩に乗っていた栗鼠のこまるが僕の方へムササビのように飛んできた。
「……っとと」
僕は両手で優しくこまるをキャッチする。
「きゅっ!」
まるでナイスキャッチ! とでも言いたげな態度でこまるが鳴く。こいつ、日に日に態度がでかくなっていくな……。
そのとき、ポツ、と頬になにかが触れた。
「……って、あれ?」
顔を上げてすぐ、異変に気が付いた。
「雨?」
「そうそう。暑いから、今日は雨仕様にしてみたよ!」
つぎはぎの空は雲がかかっていて、そこから雫がポツポツと垂れてきていた。
「どう? 涼しい?」
皮膚に当たるとパチンと弾けて水が飛沫を上げ、冷たい感触があるのに、実際には濡れない。不思議だ。
「これも雫さんの魔法?」
「そう。濡れないから安心して! 気分だよ、気分!」
「外はうだる暑さだったから、すごく癒されるよ。あー暑かったー。まだ汗引かないや」
そう言って、僕は植物の庭に寝転がる。
「もっと涼しくする?」
「え?」
雫さんが寝転がった僕の顔を覗き込んでくる。そして、パチンと指を鳴らす。
雫さんの指の上で星が弾け、同時に温室の中に地響きが轟いた。鳥と蝶が一斉に飛び立ち、小さな風の流れが起こる。
この世とは思えないほど幻想的な空間に、息も忘れ魅入ってしまう。
そのとき、ガコンという音がして、なにやら植物の影に現れた機械が動き出す。
「おっ……おぉ!」
雫さんが魔法で出した舞台装置のような機械から、冷ややかな冷気が流れ込んできた。
「涼しいー! 雫さん天才……」
思わず目を瞑った僕に、雫さんが言う。
「もうすっかり夏の色だね」
「そーだねぇ……」
吐息のような返事をする僕に、雫さんはやれやれといった様子で返してくる。
「ムギちゃんは暑さにやられてますねぇ」
「んー。暑さだけじゃないかもしれない」
「なに、どういうこと?」
雫さんは僕を手のひらで扇ぎながら、優しい顔で覗き込んでくる。
「雫さんはさ、十年前の六月にあった事件知ってる?」
「十年前の事件……?」
雫さんの声がほんの少しだけ低くなった気がした。
「ははっ、知るわけないか。雫さんは魔女だもんね。ごめん、忘れて。なんでもないから」
僕は寝転がったまま、つぎはぎの空をぼんやりと見上げた。ぽつりぽつりと淡い水が、僕の身体中を冷やしていく。
雫さんは掘り下げていいのかを少し迷うように、声を低くして訊ねてきた。
「……その事件が、どうかしたの?」
「……僕、唯一の生き残りなんだ。十年前の事件の」
雫さんはもう少し驚くかと思ったけれど。彼女は、驚くというよりも少しだけ悲しい顔をした。
「……どんな事件だったの?」
僕は目を伏せ、小さな声で言った。
「十年前の六月十日、ひとつのタワーが一瞬にして崩れて消えた。それから、そのタワーがあったこの区……唐草区の区民全員が失踪したんだ」
雫さんの瞳が淡く潤み、揺れた。
「……ムギちゃんは助かったんだね」
「うん。僕はそのときの記憶はなくて……気付いたら病院にいたんだ。それから、両親は海外に行っていたから助かったけど……兄さんはその事件に巻き込まれて、消えた」
雫さんはなにも言わず、僕を見た。
「…………だから、この時期はいつもテレビ見ると憂鬱な気分になるんだ。どのチャンネルかけても、そのときの事件の特集ばっかだから」
「……そっか」
雫さんはそれ以上なにかを問うわけでもなく、静かにひと言呟いた。こんな重い話を打ち明けられて、そりゃかける言葉なんてないよな……。
「……ごめん、こんな話。別に今はもう気にしてないから」
雫さんは僕を悲しそうに見つめ、なにかを言いかけた。
けれど一度口を噤み、少しだけ暗くなってしまった空気を引き裂くように、明るい声を出した。