温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
『雫の対価』
十年前、六月十日。
突然、唐草区に大きな爆発音が轟いた。
真っ青に晴れ渡った空には、おどろおどろしいきのこ雲。それはなにかを吸い取ったあとの幻のように、ゆっくりと形を崩して消えていく。
雫は、ひび割れたコンクリートの上でへたりこんでいた。
頭が痛い。身体中が痛い。疲れた。喉が渇いた。
『雫』
声がして顔を上げる。そこには、漆黒の蝶がいた。
ひらひらと動く羽根は悲しいくらいに美しい。蝶は雫と向かい合うように目の前にはらりと降り立ち、その羽を休めた。
『やっと、終わった……?』
雫は、空を仰ぐ。
空には、赤い斑点のようなものが踊るように舞っていた。それは、かつてレースであったものの残骸。雫の力の残骸。
辺りは焦げのような、腐敗臭のような嫌な匂いが漂っている。
ホッとして息をついた瞬間、『あの子供、死んだぞ』と蝶が言う。
その瞬間、心臓が鷲掴みされたようにびくりと痙攣した。
『……死んだ? どうして?』
雫の胸を恐怖が支配する。
『さあ』
すべてをかけたのに。これで、助けられると思ったのに。いや、助けられたと思ったのに。
これは運命なのか。
雫では、彼を救うことはできないのだろうか。
いや、そんなことはない。絶対に守ってみせる。だって彼は、雫のはじめての――なのだから。
『……お願い。もう一度、私の願いを叶えて』
雫は悩む素振りもなく、言った。
『いいのか? また、対価をもらうぞ?』
どうして、神様は雫を魔女にしたのだろう。どうして、彼と巡り合わせたのだろう。
この気持ちを知らなければ、きっと見捨てることなんてたやすかったのに。
『いいよ。なんだってあげる。だから、彼を生き返らせて』
漆黒の蝶が舞う。雫の体をすり抜けるようにその蝶は舞い、消えていく。
後に残ったのは静寂と、僅かな悲しみと、小さな宝石。雫はそれをそっと拾い上げる。
『これが私の運命』
宝石を抱き締め、起き上がろうと足に力を入れた。
けれど。
――動かない。
あぁ、そうか。
雫は静かに目を伏せる。
『これが……対価なのね』
雫の目の前には、大きな穴がある。昏い、深い穴。
じっと見ていると、そこからなにかが這い上がってくるような気がした。
闇の中から手が伸びる。それはまっすぐに雫の顔に伸びてきて、頬を抉った。
雫の白くきめの細かい肌から、赤い雫が垂れていく。その一雫が、ポタリと手の中の宝石に落ちた。
透き通る透明の中に、落ちた赤。
そのとき、それを見た雫は思った。絶望というのはきっと、この宝石のように透明な色をしているのだと――。
「――雫様? 聞いてますか?」
気が付けば、三日月が心配そうに雫を覗き込んでいた。
ハッとする。そうだ、ここは温室。桜の巨木の樹洞の中。雫のはいつも通りに三時のティータイムをしていた。
いつもと違うのは、温室の中全体を本物の雨の雫が濡らしていることと、紬がいないこと。
雫は自分が魔法で降らせている雨を眺めた。
植物に命を与える、正真正銘の恵の雫。
樹洞を出ると本当に濡れてしまうから、今日は樹洞の中にカフェテーブルを置いてティータイムの準備をした。
テーブルの上には、手がつけられていない彼のための珈琲。三日月はそれには触れようとしなかった。
「……ごめん。なんだっけ」
「以前依頼を受けた水無瀬皐月様から、こちらが届きました」
三日月はぼんやりと寝惚けたような雫に、一通の手紙を差し出す。
「水無瀬皐月?」
誰だったっけ、と記憶を辿っていると。
「全国高校野球大会の日を晴れにしてほしいという願いごとをされた女子高生ですよ」
三日月は、ちらりと珈琲カップを見遣る。
「あぁ、あの子ね。そういえば、対価まだもらってなかったっけ」
呟くと、三日月は隣でため息を零している。
「……雫様」
「分かってる分かってる。この大会見に行ったときに、ちゃんともらってくるよ」
雫は笑いながら手紙を開く。
手紙の中には雫への謝礼と、全国大会まで勝ち進んだから、良かったら応援に来てほしいとのことが書かれていた。
それから、観戦チケットが二枚。きっと、雫と紬の分だろう。
思い出すのは依頼人の顔ではなく、紬と初めて行った海獣カフェだった。
薄暗い店内一面の水槽を、ジュゴンやラッコがゆうゆうと泳いでいた。紬の頼んだケーキが美味しそうで、ひと口食べたとき、すごく幸せな気持ちになった。
そのときの紬のふやけたような顔も一緒に思い出す。くすりと笑みが溢れて、けれどすぐに暗い気持ちになる。
どうしてか、胸が絞られるような痛みを覚えた。
「私は言いましたよ。大切なものは作らない方がいいと。ましてや……」
「なによ」
三日月の呆れたような視線に、雫はつんとそっぽを向く。
「……彼には私から伝えておきましょうか?」
雫には、この男な考えていることがよく分からない。つい今、紬とはもう関わるなと言ったのは三日月なのに。雫は推し量るように、三日月の瞳を見る。
しかし、やはりその暗い瞳を見ても、彼の真意は分からなかった。
雫は目を逸らし、
「……いい。私から離れていくつもりなら、それでいい」
雫は三日月に背を向ける。テーブルの上の雫の紅茶は、まだ半分以上残っていた。
「……では、私はまだ仕事が残っておりますので。……雨、そろそろ止ませないと、植物たちが根腐れを起こしてしまいますよ」
三日月は背を向けた雫をちらりと見た。そのまま何も言わずに雫を樹洞の中に置きざりに、温室を出ていった。
「別に……枯れたってかまわない」
一人きりになった温室の中を、雨の音が支配する。雫は樹洞の中から、薄暗い温室内を見渡した。
「全部、枯れちゃえ」
雫はゆっくりとカフェテーブルに戻り、紬の席へ行く。既に冷めてしまった珈琲は、寂しげに雫の顔を映し出していた。
雫はカップを手に取り、珈琲をひと口、口に含む。
「苦いなぁ……」
その珈琲は、いつも紬が美味しそうに飲んでいるものと同じはずなのに、全く知らないものの味がした。
雫の藍色の瞳に、涙が滲んでいく。