温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜

光る竹、輝く海と、もどかしい距離


 雫さんが予約してくれていた宿は、最寄り駅から徒歩十分の場所にあるらしい。

 看板などはなく、行き方は予約をした者だけに届く手紙にただひと言、『青い光を辿って』とだけあった。

 最寄り駅の歩道にあった小さな青いランプを見つけ、手紙に言われた通りにそれを辿っていくと、その宿は竹林の中にひっそりとあった。

 宿は平屋で、木でできた温かみのある造りをしていた。青色と黄色のランプにライトアップされていて、とても幻想的な宿だ。

 そして見るからに、
「高そう……」
 僕は宿を見上げ、思わず呟く。

「行こ?」
 立ち止まったままの僕を不審そうに見つめ、雫さんが急かす。
「あ、うん……」

 僕は車椅子を押し、荘厳な宿に入っていく。

「お待ちしておりました、英様。ようこそ、月の宿へ」

 上品で丁寧な態度の中居さんに案内され、僕たちは部屋へ向かう。
 僕たちの部屋は隣同士だった。

「じゃあムギちゃん、一旦バイバイ!」
「うん。あ、大丈夫? 荷物とか、身の回りのこととか、いろいろ」
「大丈夫だよ! 誰もいないから魔法使い放題だし、アフタヌーンティーもし放題!」

 言いながら、雫さんはブイサインを僕に向ける。

「まったく……夜ご飯食べれるお腹、ちゃんと取っておいてよ?」
 僕は呆れがちに笑った。

「あははっ! 分かってるよー。じゃあ荷解き終わったらムギちゃんの部屋に来るから、そしたら海行こーね!」

 そう言って、僕たちは一度別れた。

 思いの外早く荷解きが終わってしまい、僕は時間を持て余した。
 広い部屋で、僕は全開になっていた窓の外を見る。そこには真っ青な海と、水平線。

 僕はホッと息を吐く。
 そうか。ここなら、あの穴を見ることはないのだ。カーテンを開けておいても、大丈夫なのだ。

 僕は窓際の椅子に座り、お茶をのんびりと飲みながら、雫さんがやってくるのを待った。

「こんこん。ムーギーちゃーん」
 しばらくして扉が叩かれ、可愛らしい声が聞こえてきた。

 雫さんは既に高校野球パーカーを脱ぎ、いつも通り白色と茶色の清楚なワンピースを身にまとっている。
 しかし、いつもなら羽織っている赤いケープを羽織っていない。ワンピースから伸びた雫さんの白く細い肩に、僕はさりげなく目を逸らした。

 なんとなく、見てはいけないようなものを見てしまった気がして。

「……雫さん。ケープは?」
「んー? 暑いかなと思って、脱いできちゃった」
「……そっか」

 どうしよう、ドキドキする。目のやり場が……。
 僕は弾む胸をおさえながら雫さんの車椅子を押し、海へ向かった。

 そして、海辺のすぐ脇まできて、雫さんの足が不自由であることに気が付いた。

「……砂浜、車椅子だと行けないね」
 雫さんがひっそりと言う。波の音にさらわれないよう、僕は雫さんに顔を寄せて訊ねた。

「どうしようかな……。このまま、歩道をずっと散歩する? 少し海とは距離があるけど、音は聞こえるでしょ」

 しばらく黙り込んでから、雫さんはぽつりと言った。
「んーでもそれだとあんまり海見えない……ね、ムギちゃん、おんぶ」
「えっ!」

 そんなラッキー、ある!?
 僕は自分の耳を疑った。

「ダメ?」
「いや、いいけど、でも……いや、逆にいいの!?」
「うん。もっと海の近くに行きたい」

 雫さんは声を弾ませるでもなく、静かに言った。

「……ん」

 僕は背中を差し出し、雫さんの小さな体を背負う。彼女の体は信じられないくらいに軽くて、僕が背負っているのは本当に雫さんなのか、何度も確かめるように振り返ってしまう。

 白い砂浜に、一人分の足跡だけが増えていく。それがなんだか少し寂しくて、僕は見ないように顔を上げた。

 ……なんでだろう。

 こんなにすぐ近くに彼女はいるのに。彼女よりも、話したこともないクラスメイトたちの方がずっと近い場所にいる気がした。

 彼女の考えていることが、知れば知るほどわからなくなる。

「…………ムギちゃん、重くない?」
「……重くないよ」

 雫さんが波の音を撫でるように、優しく耳元で話しかけてくる。雫さんの息遣いなのか、ただの風なのかは分からないけれど、耳に触れる空気は少しだけ温かく思えた。ほんの、少しだけ。
「今、間があったよ」
「そんなことないよ」
「本当かなぁ」
 雫さんの細い腕が、不意に僕に強く絡みつく。背中を伝う体温がもどかしい。
「雫さんはもっと食べた方がいい。甘いのだけじゃなくて、ちゃんとしたご飯も」

 僕の小言に、雫さんは静かに息を吐く。

「ずっと……このまま、二人きりでいられたらいいのにな」

 それはとても悲愴な声で。僕は、彼女がそんなことを言うなんて思いもよらなくて、すごく驚いていたのに、でも、それよりも先に悲しくなった。

「雫さん……僕、雫さんのことが好きだよ。……すごく」

 僕の告白に、雫さんの体がぴくりと揺れる。僕の首に回っている雫さんの手が、なにかを堪えるようにギュッと握り込まれた。

「……うん。知ってるよ」
「……そっか」
「……私も、大好き。ムギちゃんのこと」

 まさかそんな同意の言葉が返ってくるなんて思ってもみなかった僕は、息を呑んだ。

「雫さん、あの……じゃあ」

 僕は『付き合ってほしい』と言おうとしたけれど、それはやっぱり雫さんの望んだ答えではなかったようで。

「うー寒い! ムギちゃん、帰ろう。ちょっと冷えちゃったかも」

 押し寄せる波の音と、雫さんの弾けるような明るい大きな声に、呆気なく遮られてしまった。

 僕はそれ以上口を開くことができず、そのまま宿へ足を向ける。

 僕たちはお互いの想いを確認し合ったのに、その関係はなにも変わらないままで。
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