温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜

闇の中の少女


 それから宿に戻り、早めの夕食を終えると、
「じゃあムギちゃん。私、これからお風呂に入ってくるから」

 雫さんはさっさと部屋に戻ろうとしてしまう。まるで、何事もなかったかのように。

「あ、お風呂……一人で平気?」
「うん、貸切にしたから大丈夫! ……というか、ダメって言ったら一緒に入るつもりなのー?」

 にやりと雫さんはからかうように笑う。

「あ、いやいや、そんなわけないじゃん」
 慌てて否定しながら、
「じゃあ……お風呂上がったら、お茶でもどう?」

 誘ってみるけれど、雫さんはふるふると首を横に振った。

「……そっか」
「ごめん。私、早寝だからさー」
 あははと、雫さんは無邪気に笑って言った。
 僕は引き攣りそうになる顔をぐっと堪えて、
「じゃあ、おやすみ」

 そして、僕たちは別れた。

 長い、長い夜がやってくる。いわゆる本物の空には、昏く、重い帳がかかっていた。

 時刻は零時。

 寝付けなかった僕は、真夜中にもかかわらず、竹林の中を散歩していた。
 竹林の合間から覗く、竹笹の葉に象られた深い宇宙を見上げると、そこには月も星もない。

「新月か……」

 ぽつりと呟いた言葉は、昏い夜空に吸い込まれていくように淡く光って消えた。

 そのときだった。カサリと笹が揺れる音に、僕は背後を振り返る。すぐ近くで音がしたと思ったのに、人影はかなり離れたところに見えた。

「こんな時間に女の子……?」

 誰だろう? 闇の中で、ひらりとスカートが舞ったような気がして、僕はじっと目を凝らした。

「えっ……雫……さん?」

 その人影は、僕の大好きな雫さんのように見えた。けれど、彼女は二本足でスタスタと歩いている。

 ひやりとした。

 違う。きっと人違いだ。だって、雰囲気がまるで違うし、服装だって違う。

 彼女はいつだって白色と茶色のワンピースを着ているし、あんなに短くて派手なワンピースなんて着ない。

 その人は、漆黒のミニワンピースを着ていた。

 細い腰を強調するように赤いリボンがその腰に巻き付き、足元にも同じ色の派手なブーツ。ワンピースの裾はラメが入っているようで、彼女が歩くたび、鱗粉を撒き散らす蝶の羽ばたきのように、ふわりと舞っていた。

 風に乗って、彼女から放たれた芳しい香りが漂ってくる。僕はその芳香に引き寄せられるように、彼女をこっそりと追いかけた。

 黒衣の少女は海へ向かっていた。
 波打ち際の岩に隠れるように覗くと、誰かを待ち合わせしていたのか、海には先客がいた。

 暗闇の中でも、その姿はなぜかはっきりと見えた。

 見覚えのある制服。
 あれは――。
「皐月さん……?」

 なぜ、皐月さんがこんなところに?
 皐月さんは黒衣の少女となにやら話している。しかし、さすがに話の内容までは聞こえてこなかった。

 どれくらい話していたのだろう。
 時計を持ってきていないから正確には分からないが、波の音に包まれたその時間は、やけに長く感じた。

 そして、眠気が穏やかな波のように優しく押し寄せてきたときのことだった。

 突然、皐月さんを漆黒のなにかが襲ったのだ。それが漆黒のレースなのだと理解したとき、分かってしまった。

 あれは、雫さんなのだ。そしてあれは、きっと彼女から『対価』を受け取っているのだと。
 僕は息を呑み、瞬きもせずにその様子を見つめた。

 しばらくしてレースが消え、皐月さんは膝から崩れ落ちた。
 その足元でキラリとなにかが光る。

 雫さんはそれを拾い上げ、大切そうにポケットに仕舞うと、砂浜の上に彼女を置き去りにして、竹林の中へ消えていった。

 雫さんが完全に見えなくなったのを確認して、僕は皐月さんの元へ走った。

「皐月さんっ!」
 僕は倒れた皐月さんを抱き起こす。

「皐月さん、大丈夫!?」
「……うぅ……ん」

 眉をひそめ、皐月さんが瞳を開く。
 良かった。無事だったようだ。

「大丈夫?」
「う、ううん…………大丈夫、です。って、あれ? あなた、もしかして綿帽子さん? どうしてここに」

 皐月さんは驚いたように僕を見た。

「身体とか、どこもおかしくないですか!?」
「大丈夫だけど……」
「……そうですか」

 僕はとりあえず安堵するが……彼女は一体、雫さんになにを差し出したのだろうか?
 たしか、あのとき雫さんは『二番目に大切なもの』と言ったけれど。

「あの……対価、あなたは雫さんになにを渡したんですか?」
「……えっと……分かりません」
 そう言って、皐月さんは困ったように笑った。

「え?」

 分からない?

「二番目に大切なものっていわれても全然ピンと来なかったから、まあいいかって思ってて」
「あ、そう……」

 僕はがっくりと肩を落とした。
 なんだ。思ったよりもそんなに深刻じゃなかったのかもしれない。

「あ、じゃあ私、宿泊先に戻りますね。マネージャーが抜け出したことがバレたら、試合に悪い影響が出るかもしれないから」

 僕は歩き出そうとする皐月さんを呼び止めた。

「待って。ちょっとだけいいですか」
「なに?」
「皐月さんって、出身は夢欠区ですか?」
「うん。そうだけど」

 皐月さんは頷きながら、首を傾げた。

「あの……いきなりすみません。隣の唐草区で起きた十年前の事件って、覚えてますか」
「あぁ。あの唐草区全区民失踪事件のこと? 知ってはいるけど、私はまだ子供だったから、詳しくはないんです。ごめんなさい」
「そうですか……あの、皐月さん」

 僕はぼんやりと返事を返し、それからお礼とお祝いの言葉を続ける。

「二回戦進出おめでとうございます。今日の試合すごく感動しました。次も、頑張って! あ、それから……その、君の好きな人にもよろしく」

「ありがとうございます!」
 すると、皐月さんは笑って手を振った。

 僕は皐月さんに背中を向けて歩き出す。少し距離が出来たところで、皐月さんはふと立ち止まって僕を振り返った。

「好きな人って、なんのことだろう……?」

 けれど、波の音にさらわれて、皐月さんの呟きは僕の耳には届かなかった。
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