温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
女の子
八月が来た。
旅行から帰った後、僕は一度実家に戻った。
久しぶりに会った両親は、僕が帰ると嬉しそうに迎えてくれた。実家に帰っている間は三人で隣区のフレンチを食べに行ったり、兄のお墓参りに行ったり、久々に家でごろごろして過ごした。
学園寮に戻ると、皆それぞれ帰省しているのか、いつもよりも静かだった。音のない空間が苦手な僕は、早速両親が帰り際に持たせてくれたオペラをバスケットに入れて、温室へ向かう。
結局、あの夜のこと、皐月さんの対価のことは、雫さんになにひとつとして聞けていない。
聞けなかった。だって、聞いたとしてもきっと、また突き放されて終わりだと思うから。
雫さんにとって、多分僕はその程度。
僕は僕の立場を弁えないといけない。そうしないと、もう会ってもらえなくなってしまう。
そんなのは嫌だ。
あの夜、雫さんは服装も雰囲気も別人のように違えば、二本足でしっかりと歩いていた。あれは、魔法なのか。それとも……。
「あっ」
考え込みながら温室に入ったときだった。目の前で、女の子が僕を見て声を上げた。前を見ずにいた僕は、女の子にぶつかりそうになり、慌てて立ち止まる。
「ごめんごめん、大丈夫?」
「……大丈夫」
あれ、この子、どこかで……。
「君、一人? ママかパパは?」
「……いないよ」
女の子はくりりとした大きな瞳で僕を見上げた。
その瞳に曇りはなく、澄んだ青空のように美しい。どことなくこまるの瞳に似ていた。
「……一人でここに来たの?」
「うん」
「植物が好きなの?」
「違うよ。お姉ちゃんに会いに来たの。車椅子のお姉ちゃん」
ひやりとした。僕は言葉も発せずに、女の子を見た。
まさか、願い屋七つ星へ依頼に来たとでもいうのだろうか。
「……ここに、そんなお姉ちゃんはいないよ。外はもうすぐ雨が降りそうだから、早く帰った方がいいよ」
僕は咄嗟に嘘をつく。
「……でも、どうしても叶えて欲しいお願いがあるの」
女の子の悲しそうな瞳に、僕は戸惑う。気持ちはわかるけれど、こんな小さな子が、彼女になんの願いごとがあると言うのだろう。
この少女は、願いごとに対価が伴うということを、知っているのだろうか。
「……お願いって?」
「……ママとパパ」
「君のママとパパ?」
「返してほしいの」
結局、僕は女の子の手を引き、秘密の温室へ向かうのだった。
植物に隠された螺旋階段を昇り、有毒植物のコーナーへ入る。その奥の奥、ひっそりとある扉をくぐり……。
――ずでん。
僕はバスケットと女の子を庇いながら、落ちた。
「あっ、いらっしゃい。ムギちゃん……と、おや?」
僕に気付いた雫さんが、車椅子を動かしてやってくる。
今日の雫さんは、長い髪を緩く巻き、高い位置でツインテールに結んでいた。赤い糸で蝶結びされたゴムが、雫さんの漆黒で艶やかな髪によく映える。
服装は、いつもと同じで白色と茶色の清楚なワンピース姿。上から赤いフード付きケープを羽織っていて、肩には相変わらずこまるがちょこんと乗っかっている。
「その子は?」
雫さんは、すぐに僕の背中に隠れていた女の子に気が付いた。
「雫さん。この子願い屋七つ星の依頼人みたいで、勝手に連れてきちゃったんだけど……良かったかな?」
「依頼……?」
雫さんは意外そうに僕を見上げた。どうやら、僕が願い屋に対してあまりよく思っていないということには気付いていたらしい。
僕たちはアフタヌーンティーの用意をして、カフェテーブルに落ち着く。
「えっと、この子は……」
雫さんに女の子を紹介しようとして、はたと気付いた。そういえば、名前を聞くのを忘れていた。
「君、お名前は?」
僕が訊ねると、
「湯川詩歌」
女の子は僕を見上げ、言った。
「詩歌ちゃん、この人が詩歌ちゃんの探していた人だよ。お願いごとを叶えてくれる人。君のお願いごとはなに?」
詩歌ちゃんに優しく微笑むと、詩歌ちゃんは雫さんをまっすぐに見据えて言った。
「ママとパパを返してほしいの」
「……どうして?」
雫さんは無表情に詩歌ちゃんを見返して問う。
すると、詩歌ちゃんはなにかを堪えるように、キュッと唇を噛んだ。
「詩歌ちゃんのママとパパは、今どこにいるの?」
「死んじゃった」
「詩歌ちゃん、いくつ?」
「八歳だよ」
八歳で、両親と死別か……。それなら両親を返して欲しいというのも頷けるけれど。僕はちらりと雫さんを見た。
しかし、雫さんは厳しい顔つきで詩歌ちゃんを見る。
「詩歌ちゃん……残念だけど、死んじゃった人は戻ってこないよ」
「え?」
僕は驚く。これこそ、叶えてあげるべき願いではないのか。こんな幼い女の子がわざわざ一人で、雫さんを訪ねてまで頼みに来たというのに。
「雫さん、もし依頼を受ける場合は、対価はなに?」
「……もらわないよ」
雫さんは首を横に振って、詩歌ちゃんからは対価をもらわないと言う。
詩歌ちゃんがまだ幼い子供だからだろうか。
子供だから当たり前だが、自由にできるお金などないだろうし、施設にいるのか、里親か親戚のところにいるのかは分からないが、きっと肩身の狭い思いをしているのだろう。
だからこそ、彼女は親を返してと言っているのだ。
対価を恐る心配がないのなら、僕はこの子の願いを叶えてやりたいと思った。
「それなら……それなら、僕からもお願い。死んだ人を生き返らせるなんて、良くないってことはわかってるけど、でもあまりにもこの子が可哀想だよ」
「ムギちゃん……」
雫さんは僕を見て、面倒くさそうにため息をつく。その視線は、明らかに『口を挟むな』と言っている。
……そんな顔しなくてもいいと思う。
「お願いってば!」
「ダメなものはダメ」
しかし、雫さんは頑なに依頼を受けないという。
「お願い、お姉ちゃん」
詩歌ちゃんは泣きそうな顔で雫さんに懇願する。さすがにこれには雫さんも心が揺れたようで、気まずそうに目を逸らした。