温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
『雫の運命』
絆が去ると、一羽の蝶がひらひらと飛んできた。漆黒の蝶だ。優雅に舞うように、雫の肩に止まる。
『できるのか? 君に』
それは、蔑むような口調ではなく、ただ、確認するような口調だ。
『アゲハ……お願い。力を貸して。代わりに、対価を……私を半分上げるから』
雫は、蝶を見る。強く、覚悟を決めた瞳で。
『……なぜそこまでするの』
『あの子は、私のともだちなの。運命なの』
翌日、雫の元へ再び絆がやってきた。そして、その日から唐草区を葬り去るための秘密の作戦会議が始まったのだ。
たった一人、紬の命を救うためだけの作戦。
兄は弟を、魔女は運命のともだちを助けるために、その身の全てを紬に捧げたのだ。
――そして、決行日前日。
『……でも、本当にいいの? この願いは、あなたの命ではとても補えない。あなたの存在は、永遠に彷徨い続けることになるのよ』
それは、死ぬことすら許されない、ということだ。
『それでもいい。それくらいで済むなら安いもんだ。それより、君にも対価が発生するんだろ? 俺のことよりも、君に申し訳ないよ』
『いいの。これは、私が決めたことだから』
雫は言い切り、
『これはスイッチ。あなたはこれを押すだけでいい。それが合図よ』
『これを押したら、あのタワーが爆発するのか?』
雫はこくりと頷く。
『その後、私がこの街のすべての人間を消す』
『紬は家に留守番させておくし、両親は夜まで旅行先から帰ってこない』
『彼は本当に大丈夫なのよね?』
『大丈夫だ。絶対外には出ないよう言いつける』
これは、テロだ。絆と雫は、史上最悪のテロリストとなる。
『……なぁ、ひとついいか?』
『なに?』
『あと一つだけ願いがあるんだ。最後に、紬の五歳より前の記憶を失くしてほしい』
雫は息を呑む。だってそんなことをすれば、紬は雫のことを忘れてしまうことになる。
しかし雫は、平静を装って返した。
『……それは、どうして?』
『紬には、自由に生きてほしいんだ。また負い目を感じてほしくない。あいつには、今の両親を本物の親だと思って、幸せに暮らしてほしいんだ』
『……それなら私もひとつだけ聞きたい。あなたはどうしてそこまでして、彼を助けるの?』
雫にはよく分からなかった。彼がなぜ、自分の命を投げ打ってまで血の繋がりのない弟を守ろうとするのか。
『俺は……紬と同じなんだ』
絆はほんの一瞬だけ、暗い顔をした。
『えっ?』
『君の言葉で言うなら、紬は俺の運命なんだよ』
そのひと言だけで、雫はすべてを理解した。
『……そう。分かったわ』
少しだけ瞳を泳がせたあと、雫は小さく頷いた。
そして、雫はたった一人のともだちを失った――。
――いつもの温室。
植物が揺らめき、花が香る。
つぎはぎの宇宙には、朝焼けの空。
瑞々しい空気の中を、蝶が舞う。
紬はあの日から、温室へ来なくなった。
「ムギちゃん……」
自分から突き放したくせに、会いたいと体が震える。
いつも優しく見つめてくる黄金色の瞳。呆れながらもわがままを聞いてくれて、笑いかけるとすぐに赤くなる。
意外に大きい手のひらも、男の子のくせに生意気に長い睫毛も、笑うと垂れる瞳も。優しく雫を呼ぶ声も、すべてが懐かしい。
もうあんな風に呼んでもらえないのだと思うと、雫は胸が張り裂けそうだった。
あの日、真実を知ったときの紬の悲しげに揺れる瞳が、頭から離れない。
誰よりも近くにいたはずのその温もりが、今はとても遠くに感じた。
「また……ひとりぼっちだ……」
雫はひとりきりの温室で、涙を堪えきれずに丸くなった。
もし本当のことを言っていたら、きっと彼は優しいから、雫を許しただろう。抱き締めてくれただろう。
でも、それでは彼の怒りの行き場がない。
「これでいいんだよね」
彼のために生きると誓ったのだから。
彼に恨まれていたとしても、最期まで雫を覚えてくれているのなら、彼のために死ねるなら、それでいい。
そう、思っていたのに……。
いざ、彼が来なくなると、どうしようもなく怖かった。寂しかった。
「会いたいよ……ムギちゃん」
雫は、自分自身を抱き締めるように両手で肩をなぞる。
『雫』
「……アゲハ」
一羽の蝶が、そっと雫の肩に止まった。黒の魔女、アゲハだ。
アゲハは、雫と最期の話をしに来たのだろう。
そういえば、体が重い。気が付けば、死はもう、すぐそこまで迫っていたらしい。
紬と離れてからずっと胸が痛かったから、全然気が付かなかった。
「……アゲハ。約束通り、死んだらこの体はあげるよ。でもその代わりに約束してほしいの」
『……なに?』
「私が死んだあとは、ムギちゃんの前には現れないで」
姿は雫のまま。ただ、雫の心だけが消える。
この顔を見れば、紬はいやでも兄のことを思い出すだろう。
この顔は、ただ彼を苦しめるだけ。
それに、もし、もし万が一……彼の中で憎しみよりも愛が大きくなって、また雫のこの姿を好きになってしまったら。
紬が雫ではない雫を好きになるなんて、それだけはちょっと許せない。
それがたとえアゲハだとしても。
紬は一途だし、なにかの間違いでそんなことになったらと思うと、おちおち死んでもいられない。
「だから、これくらいのわがままは許してくれるよね」と雫は心の中で、紬に断る。
『……それは、この街を出ろということ?』
「うん。それくらい、いいでしょ?」
『まあ、この体が手に入るならな』
「……三日月のこともよろしく。それから、こまると……」
雫はさらに連絡事項をつらつらと話し出そうとする。
『くどい。なるようになる。君は余計なことは考えなくていい』
そんな雫を、アゲハは乱暴にぶった斬る。その声は少しだけ寂しげに、静かな温室内に響いた。
雫は一度言葉を切り、笑ってアゲハを見た。
「……それから、アゲハ。私の願いを叶えてくれてありがとう。あなたは悪い魔女なんかじゃないよ。とても優しい魔女だよ。だから、これからも元気で」
雫の口から初めて零れた本心に、アゲハは言葉を詰まらせた。蝶はひらりと、静かに羽根を広げて閉じた。
『……私は』
「アゲハ。あなたが私のことをなんと思おうと、あなたは私の親友だよ」
『…………そう』
「ごめんね、あなたの運命を守れなくて」
蝶はそのまましばらくの間、雫の肩に止まってじっとしていた。
雫は泣くこともなく、笑うこともなく、ただぼんやりと温室の朝焼けの空を眺めていた。
澄んだ空気が物悲しく、雫の心を締め付ける。
雫は最後に心の中で、紬に「さよなら」と別れを告げた。それから「愛してる」と愛の告白も。