温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
白の魔女と少年の運命
ひとりぼっちの空
僕には好きな人がいる。
その人は魔女で――僕の兄を殺した人だった。
あれから、一週間。
僕は未だ、雫さんに会いに行けていない。
キッチンのカウンターにそっと置かれた小さな小瓶。中には美しく輝く宝石がある。
ガーネット、エメラルド、ルビー、ダイヤモンド、オパール……。
これらは全部、彼女の命だ。
僕はルビーを手に取った。部屋に差し込む光を反射して、美しく輝く石。
雫さんは、これを飲まないと生きていけない。
「どうして、こんな大切なものを僕に……」
本当に死ぬ気なのか、それともどうせ自分を殺せないと、僕を甘く見ているのだろうか。
僕を知っていたのなら、どうしてあのとき僕を受け入れてくれたのか。
雫さんはやっぱり悪い魔女なの?
雫さんは願いごとを叶える代わりに、対価は容赦なくもらう。
兄は、自分の命を対価に、なにを願ったのだろう……。
以前願いごとを叶えてもらった結衣さんは感謝していたけれど、叶えた結果がすべて円満にいっているとはいえない。
南塚さんとモモさんは消息不明だし、詩歌ちゃんは亡くなった。
僕にはもう、雫さんの考えていることが分からない。
僕は答えを出せないまま、学園へ向かった。
けれど、こんな状態で授業に身が入るわけもなく。
一時間目だけ受けて、その後は結局、中庭に逃げるように駆け込んだ。
中庭の草むらに身を投げ出すと、空が見えた。
僕の心とは真逆で、九月の空は真っ青に晴れ渡っている。僕への配慮なんてなにもなく、悲しいほど美しく澄んでいる空に、よく分からない涙が込み上げてきた。
雫さんは今、どうしているだろう。
宝石を飲んでいないということは、命を繋ぐものがないということだ。
どれくらい飲まなくても平気なのだろうか。
体調を崩していないかな。雫さんは、僕と会っている時は、必ず宝石を飲んでいた。
つまり、ほぼ毎日飲んでいたということだ。
僕は小瓶を空へかざす。
もう、一週間だ。
……会いたいなぁ。
「あーもう……頭の中がぐちゃぐちゃだ」
僕は清々しさを強調してくる空を拒むように、目を両手で覆い、遮断した。
それから、どれくらい経っただろうか。
ぼんやりとしていると、頭の上から声がした。
「紬君」
その声に、僕は重い瞼を開く。
「……理事長」
頭の上に立って僕を見下ろしていたのは、理事長だった。
「お悩みのようですね」
理事長は相変わらず、涼やかな笑みをたたえていた。目にした人すべてを虜にしてしまうような完璧な笑みを見ても、今の僕には嫌悪感しか感じられない。
「授業をサボるなんて、悪い子ですね。雫様が知ったら嫌われてしまうかもしれませんよ?」
僕は理事長の冗談に愛想笑いすら浮かべないまま、無言で起き上がる。
そして理事長は一歩ずつ、ゆっくりと僕に近づく。
少し身構えた僕に、理事長はふっと笑った。
「大丈夫、なにもしませんよ。あなたにはこれを渡しに来ただけですから」
理事長が僕に差し出したのは、漆黒に塗りつぶされた手紙だった。
「なんですか?」
「夜の温室への招待状です」
「夜の温室……」
そういえば以前、夜に雫さんを訪ねたことがあったが、あのときは結局会ってもらえなかった。
「これがあれば、もう追い返しませんから。安心して寮を脱走してきてください。ああ、寮監さんは上手く誤魔化してくださいね」
理事長もあの夜のことを思い出したのか、口元を三日月形にして、微笑んだ。
「……どうせなら、寮監にも話を通しておいてくれたらいいのに」
「おや、文句ですか?」
「だって、あの寮監に脱走がバレると怖いんですよ」
また二十階まで階段を使えなんて言われたら、たまったもんじゃない。
「私はあなたの執事ではありません。それにあなたのために手を回すほど、私は暇じゃありませんから」
「今からじゃダメなんですか」
せめて昼間ならば、門限に引っかかることはない。
しかし、理事長はその質問には答えることはなく、代わりに衝撃的な言葉を吐き出した。
「……ああ、そうそう。南塚さんはあなたがいくら探しても、見つかりませんよ」
「!」
理事長の発言に僕の身体はかちりと固まって、身動きが取れなくなる。
「密かにお調べになっていましたもんね。彼らのその後のこと」
たしかに僕は一人で南塚さんやモモさんのことを調べていた。……でも、このことは誰にも言っていないのに。
理事長の双方の瞳が、僕をじっと見据えていた。まるでお前の行動はすべて見ているぞとでもいうかのように……。
「……じゃあ、南塚さんはどうなったんですか」
「あの後、彼はもう一度願いごとをしたんです。自分が殺した母親を甦らせてくれと」
母親?
「どういうことですか!? あの人は、お祖母さんじゃ」
「彼は嘘をついていたんですよ。実際に捨てられたのは彼の親ではなく彼自身。彼は、長年の恨みを殺人という形で晴らした」
南塚さんは、そもそも復讐のために雫さんに願いごとをした?
「でも、それならなんで甦らせてくれなんて……」
草間有美を殺した南塚さんは、目的を果たしたはずだ。
「しかし、実際彼の母親の草間有美は、ずっと彼を探していた。彼を心から愛していた。それを後から知った彼は、自分の命と引き換えに母親を助けてくれと願った」
晴は捨てられてなどいなかった。けれど、死んだ人間はもう戻ってこない。一度犯した過ちはもう正せない。
魔女の力を借りる以外には――。
「……じゃあ南塚さんは、自分の命を対価にしたってことですか」
理事長の言葉によって、僕の体は残暑の中、太陽の真下にいるというのに急激に冷たくなっていく。
「私が話せるのはここまで。くれぐれも招待状は失くさないようにお願いしますよ」
強ばった顔の僕とは対照的に、理事長はおっとりとした口調で僕に言う。
「今夜零時。あなたと雫様の真実が知りたければ、来なさい」
理事長はいつもの穏やかな笑みを浮かべていて、相変わらず真意は分からない。
「……あの、最後に一つだけ。雫さんは元気ですか?」
おずおずと訊ねるが、理事長から穏やかな返事が返って来ることはなかった。
「そうですね……今夜を逃せば、きっともう君は二度と雫様には会えないでしょう」
理事長はそれだけ言い、僕に背を向けた。
「では、私はこれで」