温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
黒の魔女
理事長が去った後、僕は握っていた手紙を見つめ、そして封を切った。中には手紙同様、やはり漆黒のカードが一枚。
『綿帽子紬様。今夜零時、温室にて待つ。――英アゲハ』
「英アゲハ？」
誰だ？
カードには、雫さんの名前はどこにも書かれていない。その代わりに雫さんと同じ苗字のアゲハという人物の名があった。
ふと過ぎるのは、雫さんと旅行に行ったときに見たあの黒衣の少女。
蝶のような少女。美しかったけれど、高慢で威圧的で、恐ろしいほどに妖艶な雰囲気を持つ少女。
……もしかして。
不安が胸を募っていく。
理事長は、今夜を逃せば、もう雫さんには会えないと言った。それはつまり、今夜が彼女の命のタイムリミットということだ。
「行くしかないか……」
僕ははやる心をおさえて、夜になるのを待った。
その日の僕は、夜になるまでこれまで締め切っていた赤いカーテンを開けて、あの穴を眺めていた。
兄さんを飲み込んだ穴。雫さんが兄さんの願いを受けて作った穴。僕にトラウマを刻み込んだ穴……。
ふと、中学生のときを思い出した。あの頃はただ、一日でも早くあの家を出たかった。
僕は中学三年生の時、両親に『花籠学園の学生は、寮に絶対に入らないといけないから』と嘘をついてここへ来た。
本当はただ、あの穴が近くにあるのが怖かっただけだ。
家にいると兄を思い出すのが辛かっただけだ。
時が経ち、だんだん記憶が薄れて兄を忘れていくのが悲しかっただけだ。
兄は、願いごとを叶えて幸せだったのだろうか。
「声が聞きたいよ……」
一人きりの部屋で呟いた言葉は、誰にも届くことはなく、ただひっそりと冷たい空気に溶けて消えていく。
約束の時間が迫ると、僕は寮監の目を盗み、なんとか寮を抜け出した。
密やかに白色と青色でライトアップされた温室へ入り、草木の間をすり抜けるようにして進む。
青色に照らされた螺旋階段を昇り、有毒植物のコーナーへ入る。
奥の奥、小さな扉の前に来ると、僕は立ち止まった。
この先に、一体なにが待っているのだろう。理事長の言う真実とは、一体なんなのだろう。
心音がうるさいくらいに鳴り出した。
僕は胸ポケットに手を当てる。コツンと硬い感触が手に広がる。そこには、雫さんの命を繋ぐ宝石たち。
雫さんは兄の仇だ。もしかしたら、これは彼女の罠かもしれない。死ぬのを思い直して、僕から宝石を奪い返そうというのかもしれない。
それなのに、また雫さんに会えるかもしれないと思うと、足が勝手に進めと矢印を指す。
僕はどうしようもないくらいに彼女を愛してしまう自分の心に苦笑した。
しかし、すぐにその笑みは消える。
雫さんは、どうだろう。僕に会えなくて、少しは寂しいと思ってくれていただろうか。
「そんなわけないか……」
こんなことなら、出会いたくなかった。恋がこんなに辛いものだなんて、思いもしなかった。
運命とは、なんて残酷なのだろう。
雫さんの冷ややかな瞳や、冷たい唇の感触が蘇る。
どんどん後ろ向きになっていく心を奮い立たせるように、僕はぱちんと頬を張った。
雫さんがそんなことをするわけないと言い聞かせ、
「……ふう」
僕は目を瞑り、息を吐いた。
そして小さなその扉を、くぐった。
――ずでん。
「いってぇ……」
臀部に容赦ない痛みが走る。
うっかり、受身をとるのを忘れていた。今日はバスケットを持ってないからとれたはずなのに。
つぎはぎの宇宙には、夕焼けの空が広がっている。やはりここに来ると、時間の感覚がおかしくなってしまう。
雫さんの魔法で演出された偽物の宇宙はいつも、ここが学園であることを忘れてしまうくらいに美しい。
「――おはよう、哀れな人間様」
腰をさすっていると、すぐ目の前に人影が揺らめく。
植物がしなり、かさりと音を立てた。いつもなら草花に止まって大人しい蝶たちが、今は踊るようにパタパタと偽物の宇宙を舞っている。
それは僕を歓迎しているのか、それとも警戒しているのか。
その人影は、雫さんのように見えた。
「雫……さん？」
けれど、名前を呼んでみて、すぐに違うとわかった。だって、目の前の少女は二本足でしっかりと立っていたから。
服装も違う。黒衣のミニワンピースをまとい、腰には真っ赤なリボン。足元は同じ赤色のブーツを履いていて、そこから伸びるほっそりとした白い足を美しく引き立てていた。
黒衣の少女が僕を見て笑う。
「君は……」
顔は雫さんと瓜二つ。けれど、たしかに違う人。
それは海岸で見た、あの少女だった。
紅い瞳に見つめられ、僕は動きを封じられたように固まった。
雫さんは深い宇宙を宿したような藍色の瞳をしているが、今僕の目の前に立つ彼女は、深紅の瞳を持っていた。
「私は、英アゲハ」
ふと、その彫刻のような整った顔に、怪しげな影が差す。
それはいつもあどけない表情で僕を虜にする雫さんのそれとは違って、とても大人びていて、驚くほど妖艶だった。彼女の顔は紛れもなく雫さんなのに、まるで別人のような表情をする。
「英アゲハ……君が招待状の差出人？」
僕は招待状を懐から取り出した。そこにはたしかに、今少女が名乗った名前が印字されている。
「そうだ。宛名を間違えて悪かったね」
「宛名を間違えた？」
いや、そんなはずはない。僕は招待状を見直すが、ちゃんと『綿帽子紬様』と書かれている。
「間違ってないと思うけど」
「間違ってるよ。だって、君の本当の名前は黒羽紬だから。十一年前に消滅した財閥の末裔。今のこの状況の、すべての元凶さ」
「は……？」
僕は呆然と、雫さんによく似たアゲハさんを見上げた。
意味がわからない。この人は一体、何を言っているんだ？
アゲハさんは相変わらず美しく笑みながら、僕へと歩み寄ってくる。雫さんでは有り得ない、カツカツと軽快にブーツの踵を鳴らして。
「君は十年前、綿帽子絆から記憶を奪われたんだ」
「兄さんが、僕の記憶を？」
「いや、正確には、雫の魔法によってかな」
綿帽子絆は、十年前に死んだ僕の兄だ。
「待って、なんで君が兄さんを知ってるの？」
「私は黒の魔女。君の兄の願いを、雫とともに叶えた魔女だよ」
「どういうこと……？ 君は、雫さんとどういう関係なの？ 雫さんは今、どこにいるの」
矢継ぎ早に質問をする僕に、アゲハさんは、
「まあまあ、そう焦らないで。お茶でもしよう、いつものように」
『綿帽子紬様。今夜零時、温室にて待つ。――英アゲハ』
「英アゲハ？」
誰だ？
カードには、雫さんの名前はどこにも書かれていない。その代わりに雫さんと同じ苗字のアゲハという人物の名があった。
ふと過ぎるのは、雫さんと旅行に行ったときに見たあの黒衣の少女。
蝶のような少女。美しかったけれど、高慢で威圧的で、恐ろしいほどに妖艶な雰囲気を持つ少女。
……もしかして。
不安が胸を募っていく。
理事長は、今夜を逃せば、もう雫さんには会えないと言った。それはつまり、今夜が彼女の命のタイムリミットということだ。
「行くしかないか……」
僕ははやる心をおさえて、夜になるのを待った。
その日の僕は、夜になるまでこれまで締め切っていた赤いカーテンを開けて、あの穴を眺めていた。
兄さんを飲み込んだ穴。雫さんが兄さんの願いを受けて作った穴。僕にトラウマを刻み込んだ穴……。
ふと、中学生のときを思い出した。あの頃はただ、一日でも早くあの家を出たかった。
僕は中学三年生の時、両親に『花籠学園の学生は、寮に絶対に入らないといけないから』と嘘をついてここへ来た。
本当はただ、あの穴が近くにあるのが怖かっただけだ。
家にいると兄を思い出すのが辛かっただけだ。
時が経ち、だんだん記憶が薄れて兄を忘れていくのが悲しかっただけだ。
兄は、願いごとを叶えて幸せだったのだろうか。
「声が聞きたいよ……」
一人きりの部屋で呟いた言葉は、誰にも届くことはなく、ただひっそりと冷たい空気に溶けて消えていく。
約束の時間が迫ると、僕は寮監の目を盗み、なんとか寮を抜け出した。
密やかに白色と青色でライトアップされた温室へ入り、草木の間をすり抜けるようにして進む。
青色に照らされた螺旋階段を昇り、有毒植物のコーナーへ入る。
奥の奥、小さな扉の前に来ると、僕は立ち止まった。
この先に、一体なにが待っているのだろう。理事長の言う真実とは、一体なんなのだろう。
心音がうるさいくらいに鳴り出した。
僕は胸ポケットに手を当てる。コツンと硬い感触が手に広がる。そこには、雫さんの命を繋ぐ宝石たち。
雫さんは兄の仇だ。もしかしたら、これは彼女の罠かもしれない。死ぬのを思い直して、僕から宝石を奪い返そうというのかもしれない。
それなのに、また雫さんに会えるかもしれないと思うと、足が勝手に進めと矢印を指す。
僕はどうしようもないくらいに彼女を愛してしまう自分の心に苦笑した。
しかし、すぐにその笑みは消える。
雫さんは、どうだろう。僕に会えなくて、少しは寂しいと思ってくれていただろうか。
「そんなわけないか……」
こんなことなら、出会いたくなかった。恋がこんなに辛いものだなんて、思いもしなかった。
運命とは、なんて残酷なのだろう。
雫さんの冷ややかな瞳や、冷たい唇の感触が蘇る。
どんどん後ろ向きになっていく心を奮い立たせるように、僕はぱちんと頬を張った。
雫さんがそんなことをするわけないと言い聞かせ、
「……ふう」
僕は目を瞑り、息を吐いた。
そして小さなその扉を、くぐった。
――ずでん。
「いってぇ……」
臀部に容赦ない痛みが走る。
うっかり、受身をとるのを忘れていた。今日はバスケットを持ってないからとれたはずなのに。
つぎはぎの宇宙には、夕焼けの空が広がっている。やはりここに来ると、時間の感覚がおかしくなってしまう。
雫さんの魔法で演出された偽物の宇宙はいつも、ここが学園であることを忘れてしまうくらいに美しい。
「――おはよう、哀れな人間様」
腰をさすっていると、すぐ目の前に人影が揺らめく。
植物がしなり、かさりと音を立てた。いつもなら草花に止まって大人しい蝶たちが、今は踊るようにパタパタと偽物の宇宙を舞っている。
それは僕を歓迎しているのか、それとも警戒しているのか。
その人影は、雫さんのように見えた。
「雫……さん？」
けれど、名前を呼んでみて、すぐに違うとわかった。だって、目の前の少女は二本足でしっかりと立っていたから。
服装も違う。黒衣のミニワンピースをまとい、腰には真っ赤なリボン。足元は同じ赤色のブーツを履いていて、そこから伸びるほっそりとした白い足を美しく引き立てていた。
黒衣の少女が僕を見て笑う。
「君は……」
顔は雫さんと瓜二つ。けれど、たしかに違う人。
それは海岸で見た、あの少女だった。
紅い瞳に見つめられ、僕は動きを封じられたように固まった。
雫さんは深い宇宙を宿したような藍色の瞳をしているが、今僕の目の前に立つ彼女は、深紅の瞳を持っていた。
「私は、英アゲハ」
ふと、その彫刻のような整った顔に、怪しげな影が差す。
それはいつもあどけない表情で僕を虜にする雫さんのそれとは違って、とても大人びていて、驚くほど妖艶だった。彼女の顔は紛れもなく雫さんなのに、まるで別人のような表情をする。
「英アゲハ……君が招待状の差出人？」
僕は招待状を懐から取り出した。そこにはたしかに、今少女が名乗った名前が印字されている。
「そうだ。宛名を間違えて悪かったね」
「宛名を間違えた？」
いや、そんなはずはない。僕は招待状を見直すが、ちゃんと『綿帽子紬様』と書かれている。
「間違ってないと思うけど」
「間違ってるよ。だって、君の本当の名前は黒羽紬だから。十一年前に消滅した財閥の末裔。今のこの状況の、すべての元凶さ」
「は……？」
僕は呆然と、雫さんによく似たアゲハさんを見上げた。
意味がわからない。この人は一体、何を言っているんだ？
アゲハさんは相変わらず美しく笑みながら、僕へと歩み寄ってくる。雫さんでは有り得ない、カツカツと軽快にブーツの踵を鳴らして。
「君は十年前、綿帽子絆から記憶を奪われたんだ」
「兄さんが、僕の記憶を？」
「いや、正確には、雫の魔法によってかな」
綿帽子絆は、十年前に死んだ僕の兄だ。
「待って、なんで君が兄さんを知ってるの？」
「私は黒の魔女。君の兄の願いを、雫とともに叶えた魔女だよ」
「どういうこと……？ 君は、雫さんとどういう関係なの？ 雫さんは今、どこにいるの」
矢継ぎ早に質問をする僕に、アゲハさんは、
「まあまあ、そう焦らないで。お茶でもしよう、いつものように」
