温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜
魔女の君と、何者でもない僕
次に目を覚ますと、僕はいつもの温室にいて、頬には一度濡れて乾いたような感覚が残っていた。
僕はそっと頬に触れる。
涙の跡。愛された跡を感じて、胸が温かくなった。
ゆるりと頬をくすぐる草の感触に、ハッとして目を開く。
「そうだ、雫さん! 雫さんどこ!?」
温室を見渡し、僕は必死に雫さんを探す。
「きゅっ!」
足元にいた雫さんのペットのこまるが僕を導くように温室の中央、桜の巨木の樹洞の中へ駆けていく。
こまるを追うように視線を向けると、雫さんは樹洞の中に倒れていた。
「雫さんっ!」
頬は紅潮し、息も荒い。額には汗が滲み、苦しそうに眉を寄せている。
「雫さん!!」
僕は必死に呼びかける。
すると、雫さんの睫毛がぴくりと揺れた。
「……ムギ……ちゃん……?」
雫さんは顔を歪ませたまま、うっすらと瞳を開けた。濡れた藍色の瞳と目が合い、僕は感情が溢れ出しそうになるのをぐっと堪える。
「ごめん……雫さん。僕、ずっと君に助けられていたのに、君を傷つけて……」
強く雫さんの手を握った。
「……いいんだよ。私が勝手にやったことだもん」
雫さんは力なく微笑んだ。その表情は、どうしようもないくらいに僕の心を締め付ける。
「アゲハさんから聞いたんだ。君は、十年前から僕を守ってくれてたって。ずっと、ずっと……」
涙で雫さんの顔がどんどんぼやけていく。
「まったく、アゲハったら……おしゃべりなんだから」
僕は「雫さん」と呼びながら、彼女の身体を抱き起こし、
「ほら、宝石だよ。これを飲めば治るんだよね?」
僕は雫さんの口元へ、宝石を持っていく。
けれど、
「いいの」
雫さんは宝石を飲んでくれない。
僕は焦った。
「ダメだよ! このままじゃ、君は」
「もういいの。このままだと、私は誰かを犠牲にし続けちゃうから……ムギちゃんももう分かったでしょう? 私はいろんな人の命をもらって生きてるの。私が生きることは、誰かを犠牲にし続けることなんだよ」
青白い顔をして、そう呟いた雫さんの顔が涙でぼやけていく。僕は頭が真っ白になった。
「やだっ……やだよ。お願い、飲んでよ。僕、君と離れたくない。雫さんを失いたくないよ……」
こんなに恐怖を感じたのは初めてだった。
このとき僕は、初めて依頼してきた人たちの気持ちがわかった。
自分のなにを犠牲にしても守りたいもの。皆、こんなにも追い詰められていたんだ。こんなにも胸が苦しかったんだ。
雫さんは力なく笑う。
「……ムギちゃんが悲しそうにするの、もう見たくないの。勝手でごめんね……ムギちゃんがこの温室に来てから楽しくて、嬉しくて……私、欲張りになってたみたい」
雫さんの声は、小さく震えていた。
「僕だって」
「ムギちゃんがはじめてここにきたとき、本当は追い返せばよかったんだ。でも……嬉しくて、あなたはなにも覚えていないはずなのに、また私を見つけてくれたことが、また私を好きになってくれたことが……どうしようもないくらいに嬉しくて」
今にも消えてしまいそうな儚げな雫さんの声に、僕はぶんぶんと首を振った。
「何度だって見つける。だって、僕たちは運命なんでしょ?」
震える声で言うと、雫さんは小さく肩を揺らして笑った。
「……ふふっ。そうだったね。……でも、もうそれもおしまいだよ」
「いやだよ。そんなこと言わないでよ……」
雫さんがゆっくりと目を伏せる。
「君が対価をもらう理由、ちゃんと分かったから。嫌だなんて、もう思わないから」
僕は、乞うように雫さんへ訴える。
「思うよ……だってムギちゃん、びっくりするくらい優しいんだもん。私、気付いてたよ。私が対価を請求するたびに暗い顔してたの」
「そんなことない。僕はずっと、対価が君にとってどれだけ大切なものか分かってなかったから……」
「そんなの関係ないよ。私は君のお兄さんを殺した。私と君は敵同士だよ」
雫さんはそう僕を否定して、瞳を伏せた。
「違うっ! 君は全部、僕のためにやったんだ! 兄さんと君は、僕の恩人だよ。……あの頃、兄さんがいなくなって、兄さんとの記憶がどんどん消えていくのが悲しくて、でも覚えているのも辛くて……だから、兄さんは誰かに殺されたんだって、そう思いたくて……誰かに僕の罪を被ってもらいたかったんだ。悪いのは、全部僕なのに」
「……違うよ。君のこと、知ってたのに黙ってたのは私。悪いのは、私だから」
「僕は君のせいにしようとした。だから……謝らなきゃいけないのは僕だよ。雫さん……ごめんなさい」
僕は訴える。こんなことで、彼女の考えが変わるだなんて思えないけれど。
でも、伝えたい。
だって僕たちは、絶対に敵同士なんかじゃない。
「僕はなにを犠牲にしても、君に生きてほしい。君や兄さんや、僕の本当の両親がそうしてくれたように。世界を敵に回したとしても、僕は君を選ぶよ」
「……ふふっ。最期にそんな告白が聞けるなんて、嬉しいな。ここまで生きてきた甲斐があったよ」
「最期なんかじゃない」
そんな彼女をどうやったら踏みとどまらせることができるのか、僕は必死で考える。
「お願い。僕をひとりにしないでよ……」
彼女の手を強く握って訴えるけれど、雫さんは優しい笑みを浮かべるだけで、決して頷いてはくれない。
「ムギちゃんは大丈夫。ひとりじゃないよ」
その間にも、雫さんの手はどんどん冷たくなっていく。
「雫さんがいなくちゃ、僕は生きていけないよ」
「これまでの……私に出会う前の自分に戻るだけだよ」
そんなのもう、忘れてしまった。
「そんなこと言わないで」
僕は情けないくらいに小さな声で、ただ目の前の苦しげな彼女に縋り付くことしかできない。
「ごめんね、ムギちゃん」
雫さんは目を閉じる。
いやだ。
もう失いたくない。もう、なにも。
どうか、お願い、神様――。
為す術がなくなって、思わず神頼みしたとき、僕はハッとした。