おとなり契約結婚〜幼馴染の小児科医が推しを盾に結婚を迫ってくる件〜
「……走ったのか?」
「ちょっとだけね。もう平気」
香月の怖い顔を横目に千春はよっこいせと植え込みから立ち上がった。
「あの母親に何を言ったんだ?」
「大したことは言ってないよ。聖蘭医科大の小児心臓外科の先生はみんな優秀ですって励ましただけ」
そう告げると香月の表情がみるみる険しいものに変わっていった。
「ちぃは医者じゃない。根拠のない励ましは患者とその家族を傷つけることだってあるんだ。勝手な憶測で話をするんじゃない」
思いがけず叱られ、頬に朱が走る。わかっている。香月は医者として当然のことを言っているだけだ。
普段なら「ごめんなさい」と謝るところだけど、心にどす黒いものが渦巻いていくのを止められない。
「……医者じゃないけど、当事者だよ」
千春はぎゅうっと固く拳を握りしめ言い返した。
「患者とその家族の気持ちは香月くんには分からないでしょ?……だって他人なんだから!」
他人だからこそ千春が『特別』扱いされてどんな気持ちでいるかわからないのだろう。
散々香月に甘えてきたくせに、どの口がこんな酷いことを言うのだろう。
しかし、吐き出してしまった言葉はもう戻せない。千春はたまらず香月から目を逸らした。
「先に戻りますね、香月先生」
千春は香月をすり抜け、来た道を戻り始めた。
(最低だ……)
香月を傷つけてしまった自己嫌悪で吐き気がする。
これまで散々『特別』扱いされて、すっかり慣れたと思っていたのに、なぜ今更になって八つ当たりのような真似をしてしまったのだろう。
原因はひとつしかない。
封じられていた恋心が今もしつこいぐらいに叫んでいる。
……香月に愛されたいと。