眠れる森の王子は人魚姫に恋をした

芽生えた想い

不要な食器を下げようと声かけた相手が振り向くと正直動揺した。

 …市ノ川さん。その向かいにはこないだ西田くんを呼びに来た彼女。

 名前、なんだっけ?

ふとIDに目をやると『営業部:矢部 芙美』と書かれていた。

 芙美(ふみ)…。

 ……そうか。

 そういう事か。

彼と一緒に食事をしているということは、あの時の『フミ』の正体は彼女なのだろう。珍しい名前ではないが、そう被る名前でもない。

先ほどから何人か彼のことを『副社長』と呼び、挨拶をする様子を後ろから見ていた。

 やっぱり、市ノ川さんが副社長だったんだ。

副社長である彼が自分でトレイを下げるというので、返却口を案内すると先日のお詫びと言い食事に誘われた。

 私なんかが副社長と一緒に食事だなんて…。

丁寧に辞退したのだが、彼の反応を見るためにチラッと見上げると、キスした時のことを思い出し耳まで熱くなった。急に恥ずかしくなり、キッチン内へと逃げ込んでしまった。

西田くんに会わない様になるべくキッチン側で仕事をしていたのだが、あれから西田くんは社員食堂を利用していないようで、あれ以来見かけなかった。

あの日は積雪のイレギュラーであって、普段はここ以外で昼食をとっているのだろう。実際、内勤の社員でも自分のデスクで食べている人も多い。社員全員が社員食堂を利用するわけでないのだ。

そろそろホールにでても大丈夫だろうと片づけを手伝っていたのだが、まさか副社長に声をかけられるなんて想像もしていなかった。

まだ、心臓がドキドキして耳が熱い。そりゃあんなに素敵な人にキスされるなんて生まれて初めての体験。何度思い出してもときめいてしまう。だけども彼は恋人がいる人だし、明らかに自分とは住む世界が違う人だ。好きになる気はまったくなかった。

 副社長は矢部さんと私を間違えた事に気づいてるのかしら…。

 あ、だから食事に誘ったとか?

どちらにしても口外する気はない。
その事は伝えてあげるべきだったかと後悔した。だが、後悔したところで今後もう会う機会は無いのだからどうしようもなかった。
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