眠れる森の王子は人魚姫に恋をした
「待たせて悪かった。」

急いできたのか少し息の乱れた航希がテーブルの向かいに座った。
先日、手紙で呼び出されたカフェに彼を呼び出していた。

「大変な時期で忙しいのにごめんなさい。」

せっかく来てくれたというのに、なかなか顔を見ることができずうつ向いたままでいる。うっかり航希の笑顔に決意が乱れないようにするためだった…。

部屋が荒らされた日の夜、警察署から出た私と西田くんは真希ちゃんたちと前回4人で食事したイタリアンレストランで合流し、取られたものが何もないことから、手紙を送ってくる犯人と同一人物で嫌がらせの線が濃いと警察で言われたと伝えた。

こうなったら犯人を捕まえるために一日仕事を休んで郵便受けの前で見張りをするとか、アパートの管理会社に連絡をして入口に防犯カメラつけてもらった方が効率的だ。とか、犯人を捕まえるための手段を話し合った。そして、西田くんの元カノお父さん経由で施設の取り壊しについて調べてもらおうとしてくれた話だが、元カノに無視されていて相談自体ができなかったと話してくれた。『職場が同じ元カノにガン無視されるなんてどんな別れ方したのよっ!』と真希ちゃんが呆れていたが、西田くんは苦笑いをして誤魔化した。

4人で作戦を立てていた時、スマホに不審なメッセージが届いたのだ。

『市ノ川航希に起こっているトラブルもお前のせいだ。』

「…真希ちゃん。…これ。」

届いたばかりの不審メッセージを見せる。

「こんなの気にしちゃダメ!施設の取り壊しの件もそうだけど、文のせいじゃなくてこんなメッセージを送り付けるやつらのせいだから!」

健くんも西田くんも送られたメッセージを見て、真希ちゃんと同じように気にする必要はないと言ってくれた。
しかし、今日、航希は何らかのトラブルで会社に呼び出されていることは事実だった。

翌日、会社に行くとP・Kメディカルの美容液で顔がやけどの様にただれてしまったと被害を訴える画像がSNSに拡散されており、皆、その対応に追われていた。それが原因なのか、夏に発売の新商品の認可も取り消されてしまったのだ。食堂勤務の私のところには詳しい情報は入ってこないが、お昼になっても食堂が静かなのは全社員が昼食も取れずに対応に追われているのだと想像できた。
認可を取り消されてしまった新商品の売り上げを見越して進められていた次の企画への融資も全てキャンセルされ、どの部署も大混乱に陥っていた。

「このまま会社なくなったらどうやって家族を養っていけば…。」

「うちなんて長男と3男がW受験でお金かかるのに…。」

ホールで仕事をしていると、そんなことを話す社員の声が聞こえた。

P・Kメディカルだけでも何百人に社員を抱えている。私の様にパートナー企業のスタッフを含めるとさらにもっと。取引先を考えれば何千人ともなる。ふと、送られてきたメッセージの事を思い出した。

『市ノ川航希に起こっているトラブルもお前のせいだ。』

 …私は何千人の人たちを犠牲にして航希と付き合っていけるの?

そんな事を感が始めたら胃のあたりがぎゅーっと締め付けられるように苦しくなった。そしてさらに追い打ちをかけるよに、なぜか食堂のスタッフルームの更衣室のロッカーに茶封筒が張り付けてあり、『もう一度、チャンスをやる。こないだのカフェに市ノ川航希を呼び出せ。そして別れろ。』と書かれていた。
自宅も職場も生い立ちも何もかも知られているのに私は犯人の事を何も知らない。捕まえるどころか被害者を増やすことしかできない…。

不安な時や、緊張するようところに行く時は必ず母の形見のブレスレットを付けるようにしていた。このブレスレットを付けていると母に守られている様な気がするからだ。航希からこのブレスレットが高級なものだと知らされてから普段使いがし辛くなったが、部屋を荒らされてからは肌身離さず付けている。

「文とゆっくり食事をしたいんだが、今日はあまり時間が取れないんだ。文の耳にも届いているかもしれないが、ちょっと問題が続いてね…。こんな風に突然俺の事を呼び出すなんて何かあったか?」

カウンターで受け取ったばかりのアイスコーヒーにストローを指しながら心配そうに言った。
彼の声で現実に戻る。

下を向いていても彼の声からは私を思って心配してくれいてる気持ちが伝わる。ゆっくりとブレスレットに触れ、気持ちを落ち着かせてからこれから言うべき言葉を絞り出す。

「……しいの。」

「え?」

「…別れて欲しいの。」

私の声が一生彼に届かなければいいのに…。しかし、そんな願いとは反対に彼の耳にしっかりと届いていた。

「…理由を聞いていいかな?」

航希の普段より低い声に背筋がぞくりとした。

「やっぱり、私と航希じゃ住む世界が違うのよ。こないだの別荘だってめちゃくた驚いたし、突然仕事を理由に家に送られるも嫌だったし…。何よりも私よりも身分相応の女性と付き合うのが良いと思って…。」

 …違うの。

 本当はこんなことを言いたいんじゃないの…。

泣きそうになる自分に必死に大丈夫、と言い聞かせて何とか言葉を吐き出す。

「わかった。」

「えっ?」

予想に反してあっさり受け入れられたことに驚いた。

「何でそんなに驚く?俺と別れたいんだろ?…別れてやるよ。もともと俺が強引に進めた話だ。無理させて悪かったな。」

そう言うと航希はさっさと席を立ってカフェを出て行ってしまった。

 これで良かったのよね…?…お母さん?

形見のブレスレットを見つめ自分の行動をどうにか正当化したいのだが心が痛くて痛くてどうにもならない。必死に堪えていた涙が一気に溢れてきてしまった。他のお客さんに気づかれないよう、息を殺しながら涙と戦っているとテーブルに置いていたスマホに『よくやった。全て元通りにしてやる。』と、メッセージが届いた。

 あぁ…、どこかで見ていたのね…。

 …そうよ。これで全て元通り。

喜ぶべきなのにまったく笑顔になれなず、ひたすら涙が流れて感情のコントロールが効かない。こんな経験は初めてだった。

 お母さん…。助けて…。

「あの…。良かったらこれを使ってください。」

見知らぬ男性が航希が座っていた席に座り、ハンカチを差し出していた。

「もう…大丈夫ですので。」

気持ちだけ受け取り丁寧に断った。

「あ、ナンパとかではないです。ほら、こんなにおじさんですし。ただ、ちょっとあなたに伺いたいことがあるんですが…。」

一方的に話を始める男性の声を涙が収まるまでの間ボーッと黙って聞いていた。
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