Filigran.
「…乙木、どうしたの?」
ずっと返事が出来ないでいる私に、
不思議に思ったのか坂吉先輩がそう聞いてくる。
どうして、なんで、彼が、私を。
確かに握手会には何度も通っていたし、
回数を重ねただけ顔と名前は覚えてもらっていた。
それでも、ここで働いているなんて言ったことは無い。
それよりなにより、私を探す理由が無いでしょう?
「えっと、人違いじゃないですかね?
知り合いでもないし、『雪乃』って名前は珍しくないですから」
そうやってやっとの思いで答えると、先輩は「確かにそうだよね」と同意した。
「じゃあ、休みの日にごめんね。また来週のバイト頑張ろうね~」
最後まで知らない男の人の声に聞こえていたけれど、
優しくて緩やかな話し方に、やっぱり坂吉先輩は安心する人だなと感じる。
「はい、今日は休んで申し訳ないです。またお願いします、失礼します。」
そう言って電話を切って、
ちょうど下の階でお母さんが「ご飯できたよ~」
と叫んでいるのが聞こえる。
あんなにのびやかに叫ばれたら近所迷惑になっちゃうから、
急いで行かなきゃと部屋を出る。
キャパオーバーな頭は、
ずっと処理しきれていなまま。