ハニー・メモリー
 通勤しているであろう人達の群れに紛れながら進む。

 早歩きをしていくうちに、自分の中でリズムが整ってきた、真帆は自らを鼓舞していく。

(とりあえず、あたしは仕事に集中しよう。そうよ。社会人として、やることはたくさんあるわ)

 しかし、この後、真帆の人生は思いがけない方向へと転がることになるとは……。これっぽっちも予測していない。

     ☆

「あらあら、どうしましょう。とても立派なお相手だったのに……。本当に残念だわ……」

 破局した事を正直に打ち明けると母親は残念そうにしていた。あれから一週間が経過している。

「真帆、きっと、あんたに至らないとろがあったのね。あんたって、何気に天然だものね。たまに、トイレの水も流すのを忘れるからね。そういうの、バレたのね」

 いつまでも彼氏のいない娘を母親が心配するのも当然だ。友達の中には、子供が保育園に通っているママさんもいる。もちろん、外資系の企業でバリバリと活躍してキャリアを積んでいる人もいる。

(結婚の先にあるのは出産なんだよなぁ……。結婚は老人でも出来るけど、出産は、年齢制限があるから困けどさ、だからって、卵子の凍結とか……。それは、ちょっと、まだ早い気もするんだよなぁ)

 親達が、真帆にお見合いを勧めるのも、出産適齢期というものがあるからだ。無理に結婚しなくてもいい。そういう考え方もある。子供がいなくても旦那さんがいなくても生きていける。でも、ずっと一人は寂しいような気がする。

(というか、あたし、先輩の彼女になるのが高校時代からの夢だったのよ……)

 しかし、その先輩にフラれた。ああ、無情。

「いってきまーす」

 お弁当を作り終えると、午後からは仕事場に向かう。新年度は学習塾にとって新たな始まりの季節。真帆の職場は地下鉄の駅から徒歩三分のところにある。

 四階建ての古いビルを見上げた。一流大学の受験に特化した個別指導の塾である

 普通の塾と違って、個別指導の場合、一人の先生に生徒は一人か二人。その分、授業料は高くつく。

 アルバイト講師は二十人から二十五人。真帆がこの塾の責任者で、保護者や生徒との面談の段取りや講師のスケジュールの管理をしている。

 通常、真帆は午後一時半に出社しているが、土日や夏休みや冬休みになると勤務体制がしていく。ということで。真帆の生活は一般の会社員よりも不規則だ。

 平日、塾の授業は午後五時から。午後三時半から自習室を開放している。

(恋愛は駄目でも仕事はちゃんとやってみせるわ)

 誰よりも早く出勤した真帆は、まだ誰もいない教室や廊下を点検していった。ここは子供達の学びの場。安全面には気を使う。ニ年前、女子トイレに隠しカメラか設置されたことかあった。犯人は陰気な顔つきの男子学生だった。

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