ハニー・メモリー
 喉の奥底を絞りながら伯が懸命に言い継いでいる。

「須藤、あいつ、中学生の頃、図書室にある人魚姫の本の挿絵にコンパスを突き刺していました。何をしているのか尋ねたら、人魚の恋を邪魔した王女様の顔をギサギサにしていると答えていました。そういう怖い女なんです」

「でも、君は、そういう子を家に泊めたんだよね……」

「それに関しては僕の落ち度です」

 須藤はまともではない。だからこそ怖いのだ。真帆は乱れた髪や衣類を整えながら帰る仕度をしていた。

「あのね、色々と考えたの。あたし、疲れてしまったの。須藤さんがいる限り、あなたとは付き合えない。これは、あたしだけの問題じゃないの。生徒にも迷惑をかけたくないのよ」

 須藤のせいで疲弊していた真帆は、すっかり怯えきったような表情で告げた。

「もう塾には来ないで欲しいの。今日限り、あなたを解雇します。会うのはこれっきりにしましょう。メールも電話もやめてね」

「真帆さん……」

「いいわね。そんなふうに、あたしを呼ぶのもやめて! あたしとあなたは、もう、他人なの。いいわね」

 恋人解消。真帆は壁を築くように背中を向けると外へと駆け出していったのだった。

   ☆


 音信不通。伯は、それ以後、塾には来なくなっていた。このまますべてを断ち切るしかない……。それが、どんなに苦しくてもこうするしかない。

 夏真っ盛り。真帆に関するデマは終息していた。さすが、エリカ様だ。ネットワークを駆使してデマを飛ばす輩を一掃してしまっている。伯と別れてから一週間が過ぎようとしている。

 忘れたい。でも、無理だ。ふとした景色や出来事の向こう側に伯が息づいている。彼の事を記憶から追い出そうとすると逆に胸に広がっていく。

(だけど、伯から何の連絡もないし、もう会うこともないんだろうな……)

 とにかく、ああいう形で伯と別れたのだから、須藤も立ち去ると思っていたのだが、なぜか、須藤が急に塾に乗り込んできたのだ。

「お願い。伯はどこにいるの? 伯、アパートも引き払ってるの。最近、大学にも来ていないの」

 真帆はビルの入り口で、いきなり、そんなことを言われて困惑していた。

 先週、つまり、真帆達が別れた夜に須藤のスマホにこんなメッセージが届いたというのである。

『須藤。おまえが本当の事を言わないなら、オレ、マジで死ぬよ』

 須藤への鋭い脅しを含んだ遺書のようにも見える。伯は、見た目以上に頑固だ。こうと決めたらやり通すに違いない。涙を浮かべながら須藤が怯えたように言う。

「ねぇ、おばさん、伯君の彼女なんでしょう。伯の居場所を教えてよ」

「多分、あなたから逃げたんだと思うけど……。ていうか、あたし達、もう付き合ってないのよ。あたしに聞かれても困るわ」

「今まで、そんなことしなかったのに、おばさん、あんたのせいだよ」

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