ハニー・メモリー
うっ。痛いところを突かれて脈が乱れる。こんなにも、真帆がどきまぎしているというのに、彼は、真帆を見据えたまま淡々と告げている。
「あの夜の事は、お互い、なかったことにしましょう。期待に沿えるように頑張ります。採用していただけると嬉しいです」
何だろう。無言の圧をかけられているような気がする。あの夜のこと思い返すと恥しさに悶絶しそうになる。落ち着け。落ち着くんだ……。
王子伯。彼は真帆の弱味を握っている。
「僕も、あなたに失礼なことをしたことをお詫びします」
「……」
彼も、あの夜の事を言いふらすつもりはなさそうだ。真帆は,目まぐるしく揺れる気持ちを抱えながら考えていく。
この人は、酔っ払った真帆の強引な誘惑もキッパリと断わっている。ズルズルと誘惑に流されたりはしない。ある意味、エリカのを担当としてはピッタリの人材なのかもしれない。
そうだ。なかなか見所があるじゃないか。
それに、講師のシフトの融通が効くので急に変更されても対応できるというのは有り難いこどである。ようし、決めた。
「では、来週から来てください。仮採用とします。一週間の適正審査を経てから本採用としますので、そのつもりで、あなたの日程をここに記入して下さい」
雇うからにはちゃんとやってもらわなければ困る。まぁ、とにかく、どれだけやってくれるのか見定めるしかないだろうと思って、これからよろしくと言って微笑み返すと、彼は礼清々しい態度で椅子から立ち上がった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
パタンと扉が閉まるとダランッと脱力していった。
真帆は、肘掛け椅子の背にもたれたまま天井を仰ぐ。
王子伯は得体の知れない雰囲気を纏っている。
(まさか、こんなところで再会するなんて……)
それにしても、なぜ、あの夜、彼に抱いて欲しいと熱烈に迫ってしまったのだろう。過激なTL漫画のせいで発情していたのかもしれない。どっちにしても、あの日の自分はどうかしていた。
(さーて、そろそろ学生が来る頃たよね……)
午後三時半。塾の自習室を解放する時刻だ。建物の前で待っていた生徒が滑り込んでくるだろう。
タタタッという元気な足音が階段から伝わってくる。生徒の殆どは階段を利用している。今日も、灰色の制服姿の宮森朱音が一番乗りでやってきた。
あの子の自宅は社宅で狭いし、同室の小学生の弟がやかましい。ほぼ、毎日ここの自習室を利用している。ここだと勉強に集中できると言っていた。ちなみに、自習室では私語と飲食は厳禁である。ちちろん、携帯の電源もオフにしなければならない。