ハニー・メモリー
 どうしたものかと考えているうちにお酒が進んでいた。

 酔いがまわってきた。視界がユラユラしている。真帆はトイレに向かった。そして、戻ってすぐに打ち明けた。

「きゃはは。やーだ。あたし、先刻、トイレに入って気付いたの。パンツ、表と裏を逆にして履いてるの。ほんと、おっちょこちょいだなぁ」

 真帆は正直者なので、そんなつまらない事さえも人に言わずにいられない。

「あたし、かなりの頻度で左右で違う靴下を履いて通学していたの。馬鹿でしょう?」

「でも、真帆さんの場合、どんなにトンチンカンな事をしても可愛らしいですよ」

「そう言ってもらえると嬉しいな」

「それに、お料理はいつも完璧です」

「一度だけ大失敗した事があるの。マーマレードを作ろうとして塩を入れてしまったの。あれは、痛恨のミスだったわ。でも、砂糖の壷に塩を入れたのは母さんなの。塩漬けマーマレードは夏の熱中症対策に使ったわ。我ながら苦肉の策だったな」

 伯は楽しそうに失敗談を聞いている。いつしか、話は、真帆の週活へと移っていた。

「あのね、本当は大手出版社の文芸誌の編集者になりたかったんだ。どこかに受かるといいなと思っていたけど受からなかったの。その時、しみじみ思ったわ。自分はたいした事のない人間なんだって思い知らされたの。東大のブランドも、就職戦線では武器にはならないみたい」

 ウダウダと愚痴っているうちに、急にガソリンが切れたような状態になり、カタッとテーブルに顎をついて寝落ちしていたのである。

 伯は、テーブルの向こう側へと移動すると、そのまま。そっと真帆の身体をお座敷に横たわらせた。首が痛くならないように座布団を枕にして寝かせてあげている。

 真帆は泡の中で遊泳してるかのように、ホワホワとまどろんでいる。

 こうやって、至近距離から見つめていると閉じ込めていた気持ちが溢れ出していく。

 真帆の息遣いを感じ取るような表情を湛えたまま、伯は、そっと小さな声で囁いていく。

「あなたが作ってくれたガトーショコラの味をずっと覚えていますよ。でも、あなたは何もかも忘れているのですね」

 あれは身も心も凍りつくような寒い冬だった。伯は、真帆から御菓子を受け取った瞬間の喜びを覚えている。

「犬の捨太郎も僕も父も、あなたのおかげで生き延びたんです。あなたがいなければ、きっと、みんな死んでいました」

 伯は、スッと身体の力を抜いて深呼吸している。

 真帆を見つめたまま頬を緩めている。薄汚れた座布団枕にして眠っている真帆は、いつにも増して無防備だ。

 長い髪を指先でサラサラと弄んでから香りを嗅ぐように顔を寄せていく。真帆のシャンプーの香りは、いつも柑橘系である。

(この香りを求めて自分もよく似た香水をつけているのに、この人は気付いてくれないんだよなぁ)

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