ハニー・メモリー
 伯の瞳の奥が熱を帯びて疼いている。

「あなたは特別な人です……」

 十ニ年前のことなんて真帆は覚えていないだろう。けれども、伯の中では深く胸に刻み込まれている。

「あなたにとっては過去の出来事であっても、僕にとっては現在進行形なんですよ」

 健やかに眠りこける真帆のスースーッという健やかな寝息。

 もっと、こうしていたい。

 記憶の底を透過するような眼差しのまま、思慕の気持ちを最大限に注ぐようにして見つめる。

 居酒屋の熱気のせいなのか、酔っているせいなのか、真帆の頬が薄っすらと汗ばんでいる。背後では酔っ払いが大声で話している。ここは色々とやかましい。それでも伯は聖域のように感じる。今、世界に自分達しかいないような気もする。

 仕切りで区切られた席を行き交う店員が途切れている。その隙に、スッと頬を寄せて真帆の右頬に口付けていく。サラサラ。サラサラ。その黒髪に伯は自分の長い指を絡めている。長い時間、心を込めて口付けている。

「あなたは、僕の天使です」

 そんなふうに囁かれていたのだが、酔い潰れている真帆は少しも気付いていなかった。

          ☆

 その翌日。真帆は猛烈な吐き気を感じていた。

「ぐーーー。やばいわ。飲み過ぎたわ……」

 午前九時。今日は、塾は開いているけれども真帆は休みだ。瞼を浮腫ませた状態で目覚めた。奥二重の瞳がむくみ、頭が重たい。ズキズキと額と眉間から頭頂部にかけて脈打っている。

(途中から記憶がないけど、伯がいてくれて良かったわ……)

 伯が、家までおんぶして送ってくれたらしい。

『すみませんね。うちの子、背が高いし筋肉質だから重たかったでしょう』

 恐縮したように真帆の母親が玄関先で娘を抱きとめたところ、彼は、母に丁寧に一礼して帰っていったというので、真帆は母親以上に恐縮していた。

(お会計も伯が払ったみたいなんだよね……。ちゃんと返さないとね。あたし、最近、寝不足で疲れてたのね)

 近所といえば近所だが、焼き鳥のお店から真帆の家までは徒歩で半時間はかかるのだ。

 母親から聞いて申し訳ないことをしたと思った。

 昨夜はありがとう。ごめんね。伯の携帯にメッセを送ると、どういたしましてという短いメッセージが帰ってきた。

 この時刻、伯は大学にいる聞いたところによるとサークルや部活動はしていないという。普段、あの子は、大学でどんなふうに過ごしているのだろう。

(あの子って友達は多いのかな。それとも少ないのかな……)

 伯の私生活はなぜか想像がつかない。決して性格的に暗くはないけれど、時折、奥深い影のようなものを感じる。

 ボーーーーッ。今日は、どうも調子が悪い。頭の中がぼんやりと白く霞んでいる。

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