ハニー・メモリー
 いけない。つい、うっかり、切なげな声で真帆を求める声を連想してしまった。でも、何だろう。頑張ったら、あの顔も踏めるような気がしてきた。それが無償の愛だというならば、努力する価値はありそうだ。

 高校時代、東堂に好かれたくて、東堂の理想の髪型をキープしてきた。今、思うと、それは、チャーリーズ・エンジェルの女優さんと同じ髪型。

 英語が堪能な人がいいと言っていたので、真帆は駅前の英会話教室に飛び込んだ。そうやって、あの頃の真帆は努力をしてきた。

 そして、大人になってから再会して、こんな事になっている。

(先輩も、仲人さんに、女王様を連れてきてくださいなんて言えないものね。というか、あたしには女王様の素質があるのかもしれないわ……)

 真帆は拳を握り締めながら独り言を漏らす。

「それならば、壊れる程に、あなたを叩きのめしてあげましょう。あなたの首に首輪をつけて、ハイヒールで踏んでさし上げます」

 しかし、この考えに首を振る。いかんいかん。

 犬になった彼を脳裏に浮かべてしまった。ああ、キモイ。

 神様、なぜ、彼はMなのですか? しかし、今から想うと、それらしき兆候はあったような気がする。高校時代の東堂は、誰もが根を上げる神社の階段トレーニングも決して手を抜かなかった。

 ミーンミーン。狂ったように喚く蝉の声。どっしりと大きな入道雲。容赦なく照りつける夏の日差しに打ち据えられながら百段も続く長い石段を駆けた後、大の字になっていた。ハァハァ。あの時、東堂の全身が熱を帯びて黄金色に輝いているかのようだった。

 あの時の彼は、口元に笑みを湛えていた。あれは身体を酷使した爽快感だったのかもしれない。

 しかし、視点を変えてみたなら、アスリートなんてみんな自分で自分に負荷をかけている。それに、世の中には『鬼嫁』という言葉がある。惚れた女に叱られたいというのは、それほど妙な事でもないのかもしれない。

 自分の理想と違うからといって、彼にガッカリするのはお門違いだ。本当の彼を理解して愛することこそが愛。自分の愛が試されている!

(あたしのミーハーな価値感を人様に押し付けたらいけないのよーーー)

    ☆

 悪夢の余韻を引きずりながらも、いつも通りに通勤していた。

 塾のビルの前を歩いていると東堂からメールが届いた。来週の金曜の夜に食事をしようと書いてあった。本気でやり直すつもりのようだ。

 返事は後でいいだろう。そんなことよりも、ほらほら仕事だ。

 新しく来てもらう予定だった非常勤の講師が、ドタンバでキャンセルしてきたのである。

 電話を切ると、フーッと溜め息を腹の底から吐き出した。どこを選ぶかは、その人の自由だ。

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