ハニー・メモリー
 これは仕方ない。他の塾に引き抜れてしまった。条件が良かったの、そちらを選びますと言われてしまい、どうしたものかと頭を抱える。

(来月、非常勤の田所先生か寿退社しちゃうから、別の先生を公募してるんだけど、いい人が、なかなか見付からないんだよね……)

 そうなってくると、田所先生に拝み倒して、バイトとして頑張ってもらえるようにお願いするしかない。しかし、妊婦さんにそれをお願いするのは酷というものだ。

 真帆は大学時代に週四のペースで学習塾のバイトをしていた。その時の同僚の女性に復帰してもらえないだろうか、彼女、出産をして会社を辞めて派遣社員をしていると言っていた。

(でも、夕刻からっていうのは、子持ちの若い女性には無理だよなぁ)

 それなら、年金生活者の元教師はどうかしら。いい人材が欲しい。色々と考えながらビルのエントランスへと向かうと、思いがけない相手から声をかけられていたのである。

「あの、真帆先生、ちょっといいですか……。大切なお話があります」

 深刻な声だった。誰かと思ったら、そこにいたのは片平日向ちゃん。友達からは、ひーちゃんと呼ばれている。

 高校三年生の女の子である。周囲の目を気にするようにして、つぶらな瞳に涙を浮かべながら相談してきた。どうしたのかしら。顔色が悪い。

 そう言えば、先月辺りから様子がおかしかった。

「実は、塾には通えなくなったんです。獣医学部に進学する夢を諦めます。大学には行かずに働きます」

「えっ、どうしたの……」

 父親が、情業員三人の小さな工場の経営に失敗して破産しそうになっているという。自宅も担保に入れているという。果たして、どうやって励ませばいいのか分からない。

「こんなの無理だと分かっているんですけど……。父が、どうしても、授業料を返してもらえって言うんです。あと、四コマ分、ありますよね。それを取り戻して来いって言うんです」

 切羽詰まった様子にドキリとなる。彼女の父親は借金取りに追われているらしい。

「父さん、ほんとに切羽詰ってて……。あたし、もっと前に知ってたら、アルバイトをして家計を助けたのに……。親戚にお金を借りようとしているみたいです」

 闇金の怖い男が、この子にもつきまとっていると打ち明けられて胸がザワついた。

 きっと、この子も死ぬほど悩んだに違いない……。だからこそ真帆も切なくなって目の奥の辺りがキーンと熱くなる。言うのが辛かった。

「あのね。うちは、そちらの都合で止めた場合は返金できないシステムになっているの」

「そうですよね。それなのに、うちの父親は納得してくれないんです。もしかしたら、ここに父親が怒鳴り込んでくるかもしれない。だから、心配で……。勝手なことを言って、ごめんなさい。今までお世話になりました」

「いいのよ。あなたも頑張ってね」

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