ハニー・メモリー
 塾を辞める彼女の人生はどうなるのか。色々と気になるけれど後姿を見送るしかなかった。

 日向が帰った半時間後。本当に真帆のところに彼女の父親が乗り込んできた。えらい剣幕だった。

「おい、あんたに話がある」

 油まみれの作業着姿の小柄な中年の不躾な声に振り返った。頭皮は海から上がったかのようにべたついており、薄毛が目立っている。

 痩せて小柄な男性なのだが威圧的な目をしている。下町育ちのせいなのか、元々、話し方は乱暴だけど、前に見た時はもっと穏やかだった。

 今、こうやって真帆を見上げる目付きも声も険しい。今にも、何かを壊してしまいそうな荒んだ雰囲気を漂わせている。

 色々と気になりながらも、真帆は面談室へと誘っていく。

「それではこちらの部屋に来てください」

 見たところ、五十歳後半というふうに見える。先刻、日向は涙を浮かべていた。きっと、こんなふうに荒れている父親を真帆と対面させたくなかったに違いない。

「うちの娘。今月は一度しか塾に来ていないんだよ」

 だから、残りの分は返してくれと怒号まじりに迫られても困るのだ。

「おい、教えてないのに金だけは徴収するってのは、一体、どういう了見なんだよ!」

 こんな有様なので娘を大学に行かせる余裕も無いのだろう。それでも、言わずにはいられなかった。

「あの、聞いて下さい。日向さんは優秀です。塾の事は仕方ありません。経済的に大変だとは聞いています。ですが、どうか大学に行かせてあげて下さいませんか。未来を奪わないで下さい。奨学金の制度もありますよ」

「獣医になったところで、どうすんだ。娘は、開業する金もないんだぞ」

「獣医師免許があれば、食品衛生管理や検疫などの職にもつけます。娘さんは、景気に左右されないお役所関係の仕事に就きたいようですよ」

 志望大学と、そこに行きたい理由を真帆は把握している。あの子は、動物の病気を治したいのではなくて、手堅い職に就きたいのだ。しかし、父は娘の気持ちが分かっていない。

「今だから言うが、オレは、大学なんて行かなくてもいいと思ってたんだよ。女は仕事なんかにかまけなくていい。独身のまま惨めに過ごして欲しくないからな」

 グサッ三十路の真帆の胸をえぐるけれども、昔と違って女性の生き方は一つではない。

「獣医学部の生徒の働き先は多岐に渡っています。おたくの娘さんは、農林水産省や厚生労働省で働くつもりでいるようですよ」

「娘が公務員になるよりも、公務員と結婚して欲しいぜ」

「仮に、夫がどんなに素晴らしい人でも事故や自殺や病死で先立つこともありますよ」

「そ、そうかもしれねぇが、滅多に死ぬもんでもねぇよな」

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