ハニー・メモリー
 小さな町工場では、どんなに働いても資金繰りに行き詰ることはよくあることである。真面目に働いていても、ど゛うしようもない事がある。真帆は震えながら涙をこらえていた。すると急に顎に手を添えられていた。

(えっ、うそ、どうして……)

 なぜか、口付けられていた。真帆の頬に手を添えたまま指で涙を拭っている。そんなふうに見つめられると鼓動が揺れて身体の芯が痺れていく。

 彼は、海からやってきた人魚のように澄んだ瞳で告げている。

「僕は、あなたが好きです」

 真帆は不意打ちをくらったように目を開いた。

「御存知ですか……。完璧なものに隠された僅かな欠点ほど素晴らしいものはないという言葉があります。あなたのように素敵な人を他の男に渡したくないんです」

「あたしをからかってるの?」

 声が上擦り、たちこめる気恥ずかしさに目を泳がせる。だが、彼の視線はゆるぎない。真帆を捉えて離さない。裸を見られるよりも恥しい……。

 どうして、アラサーの自分なんかを好きになったのか。真帆は理解に苦しむ。こんなのおかしい。

 先刻の唇の感触を思い返すと心臓がドクドクと高鳴り、呼吸するのも苦しくなってきた。色々と狼狽しながらもサッと伯の腕を振り払ってから、伯の肩をトンと押してみせた。

 色々とショックなことが重なり、気持ちがまとまらなくなっていた。伯の存在が真帆を掻き乱している。何とか平常心を取り戻したかった。

「あのね、君の気持ちは嬉しいけど先輩とやり直すことにしたの。デートに誘われたの」

「いいえ、僕は諦めません」

 ドンッ。両手による壁ドンで、このままでは動けやしない。若さと勢いを込めて挑まれても困る。だから、真若帆は視線で訴えていく。

「き、気持ちは嬉しいけど、先輩が好きなの。だから、あなたとは無理なの」

 ザワザワと気持ちは揺れている。まさか、こんなふうに年下から迫られるなんて思っていなかった。

 真帆はたじろぐ。ここは職場だ。こういうのは本当に困るのだ。すると、、部屋の外からドアをノックする音が聞えてきた。

「すみませーん。鐘紡さん、給湯室の冷蔵庫の交換のことで業者さんが来てますけど~」

 急かすようにして話しかけてきた事務員の男性の声に真帆はホッとなる。

「はーい。すぐ行きまーす」

 伯の肩を押し出すようにして外へと歩き出していく。年下の伯と恋愛ごっこをしている暇なんてない。歳相応の相手との結婚について真剣に考えるべきである。つとめて明るく言った。

「ほらほら、王子先生。お仕事しないとお給料は払はえないよ。さぁ、生徒が待ってるよ。早く、持ち場に戻って」

 伯は、真帆を見つめている。その眼差しに気圧されて真帆の心臓は浪打つようにして揺れている。
 
「いいわね。この件は、お互い忘れましょう」
 
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