ハニー・メモリー
 エリカは、ピリッと眉を軋ませて、どこか焦ったような顔で言う。

「真帆先生、どうしてこんなものを!」

 この時、エリカはピンときたのか息を詰めるようにしてこちらをねめつけている。女の勘が炸裂したらしい。真帆が東堂と付き合うつもりでいると見抜いたエリカが宣戦布告をしている。

「真帆先生、駄目だよ。おじさんは、エリカのものなんだよ。エリカの方が扱いに慣れているよ。エリカ、五歳の頃から馬を飼ってるの。だから、お馬さんの調教は得意なの。真帆先生には調教なんて無理だよ」

 いつもは友好的なのに、今日は好戦的な物言いをしているものだから、真帆もムキになり言い返していく。

「あたしは柔道の達人なの。攻め込むのは得意だよ、。バッタ、バッタと薙ぎ倒して見せるわ」

「もう、やだなぁ。素人はこれだから困るわ。ドMの複雑な心理を勉強しないと駄目なんだよ」

 何だかんだ言いながら、気のいいエリカはライバルの真帆に対して語り始めている。

「あのね、例えば、縄で縛られる女の人って縄でギュッと包まれているような恍惚感に浸っていたりするものなの。暴力を振るわれて悦ぶのとは違うの。そこのところ勘違いすると、ほんと駄目なんだってば……」

 相手が望むようなゾクゾクする罵声を浴びせかける必要があるというのである。

「相手が心に描いている理想の愛の形を正確に再現してあげるの」

 例えば、漫画家が心象風景を絵にする時なども相当な技術と労力を必要とする。読者の萌えと作者の情熱が融合する美しき世界に魂の息吹を注ぎ込まなければ素晴らしい仕上がりにはならないのだと、両脚で踏ん張るようにして熱く語っている。

「おじさんが求めているのは魂と魂とのぶつかり合いなの。愛と欲望と哀愁と歓喜のアルゼンチンタンゴなの。Mの人が見る夢は壮大でマニアックなの。ホテルでのプレイは二人で作り上げる舞台のようなものなの。女王様と下僕が織り成す夢のタペストリーなの。胸に迫る世にも気高い総合芸術なの」

 立て続けに色々なものに例えられて混乱してきた。

「とにかく、エリカ、断固、反対するからね。ようく、考えてみた方がいいよ。真帆先生には他に相応しい人がいるんだからね」

「だ、誰のことかしら」

「そんなの、王子先生に決まってるじゃん。あの人、真帆先生にゾッコンだよ」

 エリカにそう言われても、真帆は引き下がるつもりなどない。

 その後、帰宅してすぐに、机に向かった。

 複雑な気持ちで鹿島茂先生の『SとM』という学術書を読みふけったところ、稀にみる名著であった。の

 この世界について右も左も分からない素人の真帆に響く金言が記されていた。SはサービのS。性倒錯の世界は色々と奥深いようである。 

 ベテランのドM男子に悦びを与えるというのはハードルが高いが、それでも東堂好みの奔放な女になろうと決めた。

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