ハニー・メモリー
 真帆が睨んでも彼は超然としている。右足の親指に唇を寄せたまま微笑んでいる。こんなふうに執拗に愛されると、変な感覚になる。不用意に吐息を漏らしてしまいそうになる。

 ザーッと理性の壁が決壊しようとしているたのだが、それでも何とか通話を終えたのである。

「ちょっと、いい加減にしてよ。どういうつもりなの」

 真帆は仰向けの状態から脱却しようとする。それなのに、まだまだ、彼は真帆を押さえつけている。こんなの強引で乱暴だ。もはや、暴力ださすがに頭にきた。

「な、何なの。ふざけないでよ」

 ブラウスをはだけさせたままの真帆は伯の目を見つめ返す。まさか、ここで強姦されたらどうしよう。真帆は身体を硬直させていた。そして、怯えたよう訴えていく。

「お願い。怖いことはしないで……」

 すると、伯は、寄る辺のない子供の様な表情で囁いた。

「どうか、今夜はここにいて下さい。身体のあちこちに僕の印を刻みました。あなたの身体を誰にも見せたくないんです。昔から、あなたのことが好きでした」

「あたし、あなたに、そこまで好かれる理由が分からない。昔からって、どういうことよ……。まさか、ストーカーなの? 大きな声で叫んでもいいのよ。あ、あなた、犯罪行為は駄目よ」

 塾が終わると、お掃除のおばさんがやってくる。きっと、この時間帯はトイレを掃除している。

 真帆は伯に押し倒されたまま瞳を揺らしていた。伯は、ヒリヒリするような視線を落としたまま言う。

「ある意味、僕はストーカーなのかもしれません。どうか、あなたに聞いてもらいたいのです。僕は、子供の頃から、あなたを知っていました」

 小さな子供が親を求めてすがるような眼差しを注いでいるものだから、こっちが泣きたくなる。

(なんで、そんな目で見つめるのよ)

 痛みをこらえているように唇を噛み締める伯は、まるで、海の泡になる直前の人魚姫のように脆く繊細で、触れたら壊れてしまいそうだ。

「これから、あなたが。すっかり忘れてしまった過去について話します……」

 スッと、伯は真帆の頬に手を添えながら静かな声で話し出したのである。

「僕がホームレスだったことは前に言いましたね。秋から春にかけて、僕と父は公園やネットカフェなどを転々としながら暮らしていました。ある時、日雇い労働をしていた父が指を折ってしまうんです。父は、働けなくなって安い弁当を買うことさえも困難になりました」

 過去について語る伯の瞳は夜の海のように、深く沈みむようにして翳っている。

 自身の過去について語るのは辛いのか、その声が掠れそうになっている。

「あの頃、八歳だった僕は小学校に通っていました。給食だけでは満たされませんでした。ゴミ箱にポイッと誰かが捨てたジュースを拾って飲んでいました……」

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