ハニー・メモリー
 すると、彼は、片膝をついてカーペットから起き上がった。薄い唇の右端を緩く歪めたまま苦笑している。

「あなたがやれと言ったんですよ。僕も、こんな形であなたを抱きたくありません」

 低い声音で語るとこちらに近寄ってきたか。軽やかに真帆を抱きかかえている。お姫様だっこの状態である。真帆は身体を強張らせた。やだ。何をするつもりなかしら。

 すると、真帆をバスルームに踏み込み、浴槽の中で降ろしたのだ。

「……ど、どうするつもり?」

 この人とは初対面。真帆は浴槽の縁にしがみついたまま仰ぎ見る。予測不可能な危機に晒されていると感じたのだ。

(どうしたらいいの。どういう人かも分からない。馬鹿だったわ。もしかして、惨殺されるのかな?)

 なぜか、拾太郎は世にも暗い顔つきでシャワーヘッドを手にしていたのである。

 その眼差しからは瘴気が漂っているように見える。どのような攻撃を受けるのかしらと青褪めていると、彼は、腰を屈めて探るように問いかけてきた。

「……なんで、あなたは、そんなふうに自暴自棄になるのですか?」

 透明な泉みたいな声。そんなふうに真正面から見つめられても困る。彼の真摯な問いかけに視線を逸らしながら言う。

「ごめんなさい。迷惑だったよね? 奔放な女になれば東堂先輩に振り向いてもらえるかなぁって思っちゃったの」

 彼の眼差しは殺人鬼かと思う程に冷ややかて背筋に冷たいものが流れている。

「そんな理由でしたか……」

 低い声。彼が手にしている白いシャワーヘッドが頭上にグンッと迫っている。真帆は肩を強張らせてゴクリと唾を呑み込む。

(ま、まさか、あたしを。そのままぶん殴ったりしないよね……)

 冷たい汗が背中を伝った直後。もっと冷たい水が降ってきたものだから、ジタバタと悶えた。

「つめたい。やだーーー。やだ、や、やめてよーーー」

 ザーッ。ザーッ。彼は、強引に真帆の頭に水を浴びせながら言う。

「いいですね。今後は僕以外の男をレンタルしないで下さいね。自棄になって処女を投げ出さないで下さいね。約束してくれますか」

 冷水の洗礼は強烈で、身体の芯まで冷えてしまい、すっかり酔いが醒めてしまっている。アタフタと慌てながら呟いたのた。

「や、約束するわ」

 年下に説教されて、寒さに震えながら平謝りしているなんて、ほんと、バカみたいだ。こんな自分の姿を客観視したくないけれど、これが、今の自分のリアルなのだ。

 オロオロしながら、ごめんなさいを連呼していると、拾太郎がバスローブを手渡してきた。得体の知れないサイコパス男と対峙しているような緊迫した空気はなくなっている。

「風邪をひかないように、熱い湯に入って寛いでくださいね」

 眼差しも声も優しいものに変わっている。

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