ハニー・メモリー
「ま、待ってくれーーーー。出て行く前に拘束具をほどいてくれーー」

 後ろで何か言っているが、心の中は別の事で溢れている

 グッバイ。あなたは、あたしの運命の人じゃない。理想の人物を心に描いて幻を愛していたのだけ。さようなら……。もう、あなたのことで悩むこともない。ホテルの廊下を走った。

(あたしがキスしたいのは別の人だわ)

 伯に口付けられた時は胸が爆発して身体に甘いものが溢れた。あの衝撃が忘れられない。時々、伯は大人と子供の狭間にいるような面差しを見せていた。

 子供の頃の彼は、きっと、とても傷付いていたんだと思う。真帆への気持ちは、まるで人魚姫みたいだ。伯は、言葉にしないまま真帆の近くにいた。

(あたしのこと、本気で好きになってくれたなら、あたしは嬉しいの。もう一度、あたしを押し倒して。あたしの身体に痣の花を咲かせてよ……)

 思い出すのは、伯の哀しげな眼差し……。不埒で優しい舌触りが記憶にこびりついている。

 丁寧な唇の感覚を身体がしっかりと覚えている。あんなにも深く誰かに求められたことなんてなかった。いやらしいのに誠実な指だつた。伯の綺麗な瞳の揺らめきと、真摯な声が忘れられない。

 伯に会いたい……。今すぐに強く抱き絞めたい。電話をかけてみたが留守電になっている。お願いだから無視しないで……。

 もしかしたら二度と会えなくなるのではないか。そんな不安に胸が軋む。こうやって歩いていても、ふとした舗道の段差にも躓きそうになってしまう。行き場をなくした子供のような心許ない気持ちになる。切なさが夜風に溶け込むようにして広がっている。今にも心の芯がパーンと破裂しそうになっている。

 どうしよう。いつのまにか伯の事を好きになっている。ずっと疼いていたものが溢れようとしている。

 ホテルから出た真帆は路地を通り抜けて表通りに向かおうとしていた。

(あれは……)

エリカの後ろ姿を見かけたのだ。どうしたのだろう。スマホ片手に何かを探しているのか少し不安げにしている。そんなエリカに近寄る男がいた。

 ヘラヘラしながら声をかける男は迷彩柄のパンツに黒シャツを着ており、やたらとガタイが良かった。エリカはやめて下さいと嫌がっている。

 真帆は何とかしなければと焦った。

「そこのあなた。その子が嫌がっているじゃないですか」

 真帆は駆け寄り、エリカに絡みついた腕を振り払うとと男はブチ切れた。

「うっせぇぞ、ばばぁ」

 眉が濃くてイカツイ顔の男が偉そうに真帆を睨みつけている。

 多分、真帆と同年代。それなのに、ばばぁ扱いされるのは心外だ。真帆は男の襟足をつかんで足をはらおうとした。でも、そいつは武術の心得があるのか、真帆の動きを先読みしてかわしている。

「おい、邪魔すんなよ」

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