ハニー・メモリー
 不良にカツアゲされそうになった時、気の弱い父親が、あんなにも抵抗して現金を渡すまいと抗ったのは、あれが最後の晩餐になると分かっていたから……。

「本当のことを言うと、あの夜、僕も死にたいと思っていました。ホームレスだという事がバレていて苛められていました。飢えと寒さのせいで僕達親子は絶望していました。でも、真帆さんのおかげで、親父も僕も前を向くことが出来たんです」

 まさか、あの頃の伯がそこまで追い詰められていたとは知らなかった。無意識のうちに、真帆の瞳の奥が熱を帯びて疼き始めている。こんなにも胸が痛いのは、きっと、伯を誰よりも想っているからだ。

 真帆は伯に寄り添って何度も髪を撫でながら囁いていく。

「あたし、君のこと好きだよ……」

 真帆の事場に驚いたのか、魂が抜けた様な顔をしている。しかし、徐々に、真帆の気持ちが染みてきたようだ。

「うれしいです」

 彼は、スッと口角を上げていた。ただ、ひたすら、真帆だけを見つめている。真摯な気持ちがヒシヒシと伝わってきて真帆は泣きたくなってくる。だから、正直に打ち明けていく。

「あのね。東堂先輩よりも君のことが好きなの。あたし、いつのまにか、伯のことで頭の中がいっぱいになっていたの」

 初めて伯にキスをされた時に気付くべきだった。この胸の衝動を伝えたい。だから、その頬に唇を寄せて口付けていく。じっくりと、ゆっくりと、彼の唇を重ねた後、相手の頬を包み込んだまま、優しく微笑んだ。

「君のそばにいたいよ。今夜、ここに泊まってもいいかな」

 電車はまだ走っている時刻だ。帰宅しようと思えば出来る。でも、今夜、真帆はここにいたい。こんな状態の伯を放っておけない。

「はい。もちろん。いいですよ」

 伯は、泣き笑いの顔のまま頷くと、ホロッと最後の一滴が頬を伝った。真帆は立ち上がった。

「ねぇ、給湯のスイッチはどこかな? お風呂に入った方がいいよ」

 真帆は、できるだけ明るく微笑むと、こっちにおいでよと浴室に誘ってみた。

 伯の顔色はくすんでいる。それに衣服もヨレヨレになっている。家族を亡くした喪失感のせいでお風呂にも入っていないようだった。先刻、抱き締めた時の伯は少し汗臭かった。

「君の身体を洗ってあげる。さぁ、お洋服、脱がすよ」

 脱衣所で、恥しがしがる伯爵のシャツを強引に引っ張り上げながら言う。

「そう言えば、、あたし、ちょっと思い出した事があるの。君の父親がヤンキーに襲われた時、念の為に病院に連れて行ったんだよね。それで、子供だった君は、あたしの家に一泊したんだよね」

 父と息子が公園で寝ていると知った真帆の母は、すくさま伯を熱いお風呂に入るように言った。

「君が、あたしの家のお風呂に入った後、あたしのパジャマを着せてあげたんだよね」

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