ハニー・メモリー
 彼は、クスッと可笑しそうに微笑むと草食動物のような静かな佇まいのまま、ゆっくりし会釈した。

「僕は帰ります。今夜は、ゆっくり眠って下さいね。失恋なんて、すぐに忘れますよ」

 年下の男子なのに老成したように落ち着いている。

 何か不思議な気持ちで、その顔を仰ぎ見ていると、しなやかな余韻を残しながら告げたのだ。

「それじゃ、いつか。また……」

             ☆

(いててーー、やだやだ。二日酔いだわ。頭が割れそうだよ……)

 ホテルで一夜を過ごした翌朝は最悪だった。

 午前八時。二日酔いと格闘しながら猛烈に反省していた。ニ度と、あのような醜態を晒すまいと胸に誓う。

 処女を捨てたら何かが変わると想ったれど、今思うと、あれは、一種の自傷行為のようなものだった。そういえば、高校生の時の親友は彼氏と別れた次の日、ピアスの穴を開けていたっけ。

 なんで、そんなことをしたのか友達に尋ねると、別の痛みに注意を向けたら、失恋の痛みを忘れられると思ったからと答えたので、ぶったまげた。あの時は、へーえと頷いたのだが、失恋の痛みがどれほどのものなのかを思い知ったのだ。

(ほんと、身体の一部を踏み潰されたみたいに、ズトーンとくるわ。やるせないよね……)

 自分の存在を否定される痛みと、愛する人を喪失する痛みのダブルの悲劇が真帆を圧迫している。心の痛みをまぎらわせたくて自暴自棄になっていた。本当に我ながら情けない。

『親から愛されない少女は見知らぬ男と身体を重ねるのは、親のぬくもりへの飢えをセックスで埋めているのです』

 以前、テレビのコメンテーターがそんなことを言っていたっけ。

 もしも、真帆が逆の立場にたたされたらと思うと、マジでゾッとする。

 失恋して哀しい男に迫られて抱いてくれと迫られたら困る。そんなの、もはや、ホラーだ。

(あたし、失礼な態度をとってしまったわ。拾太郎さんは怒ったんだろうな。ああーーー、時計の針を巻き戻したい! どうかしてたわ。酒乱なのかもしれないわ……。反省しよう)

 朝食をルームサービスで頼むと可愛いデイジーの花束が届いた。おそらく、ホテルのサービスだろう。

『真帆さん。おはようございます。お誕生日、おめでとうございます。伯より』

 真帆は怪訝な顔つきでカードを見つめる。

 伯? もしや、花屋の店の名前だろうか。刺すような頭痛に悩まされながら一人寂しくホテルをチェックアウトする。

 ハークションッ。並木道で真帆はくしゃみをした。ヒノキの花粉症なのだ。目が痒いし鼻がムズムスしている。

 浮かない顔のまま前後オフィスビルが建ち並ぶ雑踏の中を一人で進んだ。人生の節目とも言える三十歳の朝を、こんな形で迎えるなんて最悪だった。昨夜の醜態を思い返すと顔から火が出そうだ。

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