神殺しのクロノスタシスⅤ〜前編〜
「…」

俺は思わず立ち止まって、広い稽古場をぐるりと見渡してしまったが。

イレースは何事もないかのように、ずんずんと稽古場の中に入っていった。

イレースさん、さすが。かっけーっす。

俺の背中にしがみついて、既に幽霊を目撃したかのようにびくびくしているシルナとは、雲泥の差。

まだ何も出てきてないっつーの。

「何もいないじゃありませんか」

暗い稽古場の中を、懐中電灯で照らしながらぐるりと一周し。

イレースは、そら見たことか、と言わんばかりに溜め息をついた。

「幽霊なんているはずがありません。単なるデマか、そうでなければ見間違いです」

イレースがあまりに毅然としてるから、幽霊の方も気後れして、出てくるに出てこられないのかもしれない。

それに。

「仮に幽霊が出るんだとしても、いつも出てくる訳じゃないだろ。幽霊の方にも、都合ってものがあるだろうし」

「何ですって?死人の癖に、何の用事があるって言うんですか」

いや、まぁ、それは…。

…ちょっと、幽霊に聞いてみてくれ。

「生者が死者に合わせるのではなく、死者の方が生者の都合に合わせなさい。生者の方が忙しいんだから」

イレースにお伺いを立て、アポイントを取ってから、申し訳無さそうに稽古場にやって来る幽霊を想像して、思わず噴き出しそうになった。

それはそれで平和。

イレースも大概めちゃくちゃなこと言ってるが、本人は至って真面目なんだよなぁ…。

「出てくるつもりなら、さっさと出てきて欲しいですね」

「どうかな…」

イレースの前に出てきても、存在を認めてもらえないと思って、幽霊の方も遠慮してるのかもな。

あるいは、下手にイレースの前に姿を現したら、何をされるか分からないから。

むしろ、幽霊がイレースを怖がって、それで出てこないのかもしれない。

なんて本人に言ったら睨まれるから、言わないけどさ。

ともあれ、何も出てこないのなら、それはそれで良いことだ。

幽霊の噂は結局デマでした、ってことになる訳だから。

「本当に、何か出てくるのかね…」

黒い影がどうの、呻き声が何たら、って言ってたけど。

鬼が出るか蛇が出るか…はたまた、何も出ないのか。

俺達は、無事に朝を迎えることが出来るのだろうか?






と、思っていたら。

結局、何もなかった。

何もないままに、朝を迎えた。

びっくりするほど何もなくて、むしろ白けてしまったくらい…何もなかった。

ビビりまくっていたシルナって、一体。
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