シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~

01.思いがけない再会



 こんなはずじゃ、なかったのに。


 宮下莉緒(みやしたりお)は途方に暮れて、灰色の粘板岩(スレート)の壁と灰白色のタイルの敷かれた瀟洒(しょうしゃ)な玄関ポーチに蹲った。
 人様のお宅の前でとは思うが、もう何時間もここで待ちぼうけを食っている身である。それでなくとも東の島国から遥々海を越えて、欧州の島国(イギリス)までやって来たところなのだ。身体の疲労はピークに達しつつあった。


 日は少しずつ落ちて来ている。けれど待てど暮らせど住人が帰って来る気配はなかった。


「どうしよう……」
 莉緒は溜め息と一緒に何度目になるか分からないセリフを呟く。
 家主に何度か連絡は入れていたが、メールも電話も返事は来ない。
 日本からイギリスまでやってきた訪問者の存在を忘れているとは思えないし、思いたくない。連絡がないということは、何か不測の事態でも起きたのだろうか。


 理由は分からないが、もし夜遅く、いや今日はもう帰って来ないとしたら、早めに見切りをつけて今日の宿を確保するべきだろう。


「帰って来るかもなんて自分に都合の良い方には考えな方が、いい」
 けれどここまで引き摺って来た大きなトランクとボストンバッグ、それから斜めがけにしているポシェット。大荷物に目を遣れば、知らず知らずのうちに溜め息が出ていた。
「宿のアテもある訳じゃないからなぁ」
 莉緒は取り出したスマホで検索をかけてみたが、その眉間に深い皺が刻まれるのにそう時間はかからなかった。


「そりゃそうだよね……」


 ヒットした宿泊先候補は詳細を開けばどこも満室。そもそもお値段があまり可愛くない。少し外れにはお安い宿もあるがそこも空きはほとんどなく、女一人旅の身では心配事が山のようにある。


「今休暇シーズンだもんね。それも国内の避暑地として人気の高い湖水地方」


 莉緒が今いる場所は住宅街だが、何気なく目を遣ったそこここが全て美しい。
 歴史を感じさせる重厚な石造りの家々。敷地を区切る石塀の向こうからは気取ったところがどこもない、自然体そのものといった様子なのにお洒落なイングリッシュガーデンがちらちらと姿を覗かせる。
 ここではこれが日常の風景なのだろうが、統一感や景観保護などとは無縁の日本の住宅街で暮らしてきた莉緒からすれば非日常の心奪われる特別な眺めだ。


「これに癒されようと思って気力を振り絞ってきたんだけどなぁ」
 本当ならば背後に聳え立つ家の住人、両親の知り合いであるミセス・ベネットに今回の滞在中は泊めてもらえる話だった。
 だが、少なくとも今日はもう期待しない方が良い。


「遅い時間になれば、もっと困ることになる」


 夏のイギリスなので夜遅く、それこそ二十二時過ぎ頃までそう暗くはならない。けれど明るかろうと時間というものは確実に進むもので。
「うん、どうにかしよう」
 莉緒は自分を励ますようにそう言い切って、手にしていたペットボトルの残りの水を煽った。


 随分長いことここにいたが、湖水地方の夏が日本のそれよりずっと過ごしやすい気候だったのは不幸中の幸いだった。日本であれば汗だくでとっくに熱中症になっていそうなものだが、こちらは二十五度程度の気温で湿度も高くなくカラッとしている。


「ひとまず賑わっている街中まで出よう」
 と莉緒はトランクを引き摺り始めた。
 このままミセス・ベネットと連絡が取れなければ、滞在中は常にどこかに宿を取らなければならない。元々長期滞在のつもりで来たので所持金はそれなりにあったが、それでもそうなれば予定よりかなり帰国を早めることになるだろう。
 本末転倒だなぁと気持ちがどんどんしょげ返ってくる。


 ガラガラと車輪と地面が鳴らす音が閑静な住宅街に響いていた。うるさいだろうな、申し訳ないと肩身の狭い思いをしながら莉緒が折れそうな心を励まして道を進んでいると、隣をスーッと一台の車が過ぎて行く。
 莉緒は車種には全く詳しくなかったが、所謂高級車であることは間違いなさそうだった。
 富裕層であろう運転手と今晩の宿がまだ決まっていない自分の落差に、勝手に更に落ち込む。


 車は莉緒のいる場所より三軒か四軒先の住宅に吸い込まれていった。その時点で莉緒の頭からもその存在は消えていたのだが、車のドアが開閉する音がした直後視界に人影が映ったので驚く。
 何故か家には入らず、通りに出て来たからだ。
 というか、どうにもこちらを見ているような。


 車の運転手は男性らしい。しっかりと視線は合わせないので年の頃や詳しいことは分からない。
 何だろうと俄かに不安になるが、急に引き返しては不自然であるし、莉緒の進みたい方向はこちらなのだ。


 自意識過剰かも。私よりずっと向こうを見てるだけかもしれないし。


 莉緒はそう言い聞かせながら、それでも道幅をいっぱい使って最大限の距離を取って男性とすれ違うことにした。用心はいくらでもした方が良い。
 そして、まさにすれ違うといったその瞬間。


「ミセス・ベネットのお宅に何か用が?」


 声を、かけられる。


「!」
 莉緒は思わずその場で小さく飛び上がった。


 きっと彼女の自宅の敷地から出て来るところが通りの向こうから見えていたのだろう。
 不審者だと思われているんじゃ、と不安が芽生える。


「知り合いです。留守のようなので、引き返すところです」
 視線を下げたまま短く言い置いて、その場を過ぎようとする。
 わざわざ車を停めてから引き返してくるなんて、彼はミセス・ベネットと親しい間柄なのだろうか。いや、莉緒があまりにここでは目立つのか。
 東洋人の若い女性が大荷物を引き摺っていることなんて、この辺りではそうそうないかもしれない。


 何か妙に勘繰られても嫌だし、見知らぬ外国の男性も怖い。


 大荷物なので限界はあったが、莉緒は焦る気持ちをトランクの車輪に乗せて心持ちスピードアップさせた。
「いや待って、警戒する気持ちは分かるけど」
「わ、私別に何も怪しいことはしてないです……!」
 追い縋られてぎょっとする。反射的に振り返り、このタイミングで初めて相手の顔をまともに正面から拝んだ。


 わ、綺麗な人……


 焦りや不安が一時吹き飛び、思わず息を飲む。
 莉緒よりずっと高い身長、陽の光を受けて煌めく流れる髪は金、瞳の色は澄んだ湖のような静謐な薄い青。溜め息が出るほど端正な顔をした男性がそこにいた。
 カッコいいと言ってもいいけれど、それよりも綺麗だとそう言いたくなる雰囲気。


「っぁ――――」
 男性は何か言おうと口を薄く開いたが、適した言葉が見つからないのか結局何も発さない。しばし、莉緒と彼は人通りのない道で黙って見つめ合うことになった。


 その数瞬が。


「あれ……」
 莉緒の記憶の奥の奥の方を呼び覚ますきっかけになる。
 知っている気がする、と思った。


「待って、えっと」
 知り合いの可能性がある。まさかとは思うがゼロではない。
 莉緒は幼少期、七歳までを実は父の仕事の関係でこの湖水地方で過ごした。その後、十二の時にも家族旅行で訪れている。記憶はかなりおぼろげだが、知り合いがいない訳ではないのだ。
 今回泊めてもらうはずだったミセス・ベネットだって、こちらに暮らしていた頃の知り合いなのだから。


「…………レオン?」


 違うかもしれない。
 けれど恐る恐る呼びかけると、相手は小さく身体を震わせた後目を見開いた。


「ゼーゲルのお屋敷で、昔一緒に遊んだ」
 その昔訪れた、古く歴史を感じさせる、けれどとても美しい庭のあるお屋敷。驚くほど広い敷地は資産家の別宅で、夏になると一家が訪れていた。
そこに確かそう、男の子がいたのだ。


「リオ」


 吐息と一緒に呟かれたのは間違いなく莉緒の名前で。


 目の前の彼は、莉緒の記憶におぼろげに残るレオン・ゼーゲルその人らしい。
 まさかとは思ったけど、本当に君だったなんて、と彼は半ば独白のようにそう言った。


「……君、あの夏のことを覚えているのかい?」
「?」
 彼はトランクを引き摺っている東洋人が莉緒ではないかと、ある程度予想をつけて声をかけてきたのではないだろうか。声をかけるにあたって、ある程度莉緒が昔を記憶していることも期待していたはず。
 なのに驚いたように、探るようにそう訊ねられて、莉緒は少し不思議に思った。
「えっと、あまりはっきりとは……ごめんなさい。でもお茶にお招きしてもらったり、庭でかくれんぼしたりしたような」
 正直なところ、確かに記憶はあやふやだ。けれど絵本を切り取ったかのような素敵な空間での出来事を、完全に忘却なんてできそうもない。例えば。


「あ、確かレオンが庭のバラを傷付けちゃって、お母さんにすっごく怒られたことが」
「……そんなこともあったね。すごい剣幕だった。あれは母が特別に作らせたバラだったから」


 エピソードを共有したことで、ほっと心の強張りが緩む。レオンの方も口許に笑みを浮かべていた。


「ところで本当にどうしたんだい。ミセス・ベネットが不在だって話だったけど、その大荷物、もしかして」
「あぁ、えっとそれは……」
 莉緒の様子を見れば、ある程度の予想はつくだろう。イギリス旅行で単に知り合いを訪ねるだけなら、荷物はホテルに置いて来るだろうから。


「リオ、君すごく疲れてるんじゃない? 車ですれ違った時、あんまり意気消沈した顔してたからびっくりして。リオかもとも思ったけど、それ以前にとても見過ごせる様子じゃなかったよ」
 けれど自分の窮状を再会してすぐの彼に打ち明けるのは気が引けて言い澱むと、レオンはそっと話の向きを変えた。
「良かったら少し休んでいかないか。美味しい紅茶をごちそうするよ」


 昔、子どもの頃に少し交流があっただけの相手だ。
 それに莉緒は諸外国と比べ治安がいいとは言え、夜道や混み合った電車等女であれば警戒を必要とされる社会で育っている。


「リオ?」


 けれどそんな莉緒の警戒心は、彼の浮かべる柔らかい微笑みにあっさりと解かれていた。
 

 あぁ、この顔、知ってる。


 その感覚が、すっかり莉緒を安心させてしまったのだ。



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