シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~
10.今も変わらず
湖水地方での生活は、どこを見回しても常に美しかった。
けれど莉緒の見てきたどんな景色と比べても、そこのお屋敷の庭は格段に違っていた。
レオンの住んでいたゼーゲル家の庭だ。いや、単に庭と言うよりは庭園という言葉が相応しい光景だった。
お屋敷そのものもすごかった。
見上げるほど大きくて、豪奢な内装にアンティークの家具で統一され、まるでおとぎばなしのお姫様にでもなったような気分を味わえる建物だった。
ゼーゲル家は、父の仕事の関係で繋がりのある家のようだった。
おっとりと上品な雰囲気を纏った両親に、莉緒より数個年上の一人息子。年の差はあったが、彼は訪れる度に莉緒の良き遊び相手になってくれた。
“リオ、このバラ綺麗だろう? 後で棘を抜いたのをあげるよ”
“あっちにほら、リスが来てる。昨日クルミを仕掛けておいたんだ”
“ほら、焼き立てのスコーン。せっかくだから奥の四阿で食べよう、皆には内緒だよ”
庭はいくら探索してもし足りないくらいで、いつもわくわくドキドキして。
自然のありようを大切にした造り。けれど無造作に植わっているように思えて、全ては計算の上調和が取られていて。
咲き乱れる四季の花々。背丈の小さな子どもの頃のことだったから、あのお屋敷の庭は本当に広大でそこら中に秘密が隠されているような気がした。
この向こうに妖精の国に繋がる入口があるよと言われたら、信じてしまっていたと思う。
「私の原風景になってるのかな」
莉緒は記憶に残っているのとは違うけれど、仮住まいの部屋の窓から典型的なイングリッシュガーデンを眺める。奥の方は整備されていないからと言われたので足を踏み入れないようにしているが、それでも十分な景色が広がっている。
「絵葉書とかにしたいなぁ」
綺麗だ綺麗だと言うのは簡単だが、この状態を保つには相当手を入れているのだろう。
一人暮らしをしていた頃は、ベランダにプランターの一つもなかった。植物を育てようだなんて発想が、まず頭になかった。
莉緒はそれほどマメでもないが、それでも今は目の前の景色に触発されて、帰国した際には何かハーブの一つ二つでも育ててみようかなとは思ったりする。
「料理に使えるのもいいよね、ハーブ。買うと高いし、使い切れなかったりするし」
先ほども夕食の下準備をしていて、ラム肉に庭で採れたローズマリーを使った。
「でもそんなにハーブが必要になるようなおしゃれ料理とか作らないし、やっぱりここはシソとかが便利でいいかなぁ……」
家で何かを育ててみようだなんて、考えられるだけで進歩だ。前は本当にどこにもそんな余裕がなかった。
たまの休日には節約のために作り置きをしたりもしたが、基本は時間がなくてコンビニやスーパーのお惣菜のお世話になっていた。
「……時間あるな、どうしよう」
時計を見れば午後の二時過ぎ。
基本莉緒にはこれといってやらねばならないことがないので、贅沢にも日々の過ごし方には悩む。
「夕飯の仕込みはもうしちゃったし、散歩……でもいいけど、レオンがあんまり一人で出歩くのいい顔しないしなぁ」
危ないよ、何かあったらどうするの。
事あるごとに彼は言う。過保護だなぁとその度莉緒は思うのだが、家主に余計な心配はかけたくないので一人での外出はほとんどしない。
「レオンは忙しそうだし」
ホリデーの最中であるはずだが、にもかかわらず彼には時折仕事が入るらしい。今も自室でWeb会議をしているはずだ。
「……そうだ、書斎」
ふと思い立って、莉緒は二階にある書斎へ足を向けた。
レオンから、ここにある本は好きに読んでいいよと言われていたことを思い出したのだ。
「英語の本だと、日本語読むよりはちょっと大変だけど」
チラっと覗いた書棚には、写真集や絵画集の類もあった。そういうものなら眺めているだけでもきっと楽しい。
踏み入った部屋は、風通しのためか小窓が開けられていた。
今日は適度に風があって、そう暑い感じはしない。
「こっちは過ごしやすくてやっぱりいいなぁ」
書斎は両の壁側に本棚が並び、中身はぎっしり詰まっている。入口と向き合うように奥には物の積まれたデスクがあり、その手前には一人掛けのアンティーク調のソファがあった。
莉緒はぐるりと部屋を一周し、大判の書籍の背表紙に手を掛ける。
「いしょと、ひゃっ!」
抜き出した瞬間、想定よりもあった重量に思わず身体がよろめいた。
幸い書籍自体は取り落とさずに済んだが、腰が背後のデスクにぶつかる。
「ひえ!」
ぐらりと何かが傾く気配が背後から伝わる。慌てて身体を反転させて片腕を伸ばしたが、詰まれていた本と紙片がいくつか床に散らばった。
「やっちゃった……!」
大きな音はしなかったから、会議中であろうレオンの邪魔にはなっていないだろう。傷などついていないといいと願いながら、本を拾い集める。と、そこに窓から一つ大きな風が吹き込んで、床に散らばった紙片がふわりと浮いた。
「待って待って!」
一瞬焦るが、これも何とか回収に成功する。集めた紙片をデスクの上でとんとんと揃えていると、その内容が目に留まった。
個人的な書類を覗くべきではない。けれど紙面に踊るのは文字ではなくて。
「……スケッチ?」
鉛筆で書かれたものだろうか、白黒の風景がそこには浮かんでいた。拾い上げた、あるいは積まれた本の隙間から覗く紙片にも同じようなスケッチがある。
「上手……」
白と黒だけで構成された世界だけれどそこには奥行きがあり、描かれているものが息づいているのが感じられる。
まじまじと眺めている内に、莉緒はそれがこの家の庭を模写したものではないかと気付いた。
「これ、テラスから眺めた景色と同じじゃない?」
最近では莉緒も毎日眺めている光景だ。間違いないと思った。
「ということは……」
ぽそりと呟いたところで、不意にノックの音が響く。
「リオ? ここにいる?」
「あ、うん!」
ドアの向こう顔を覗かせた彼は、莉緒の手元に気付いて顔を強張らせた。
返事をする前に気付いておくべきだったが、今更ながらしまったと莉緒は焦る。
「あの、机の上のもの落としちゃって。でも傷とかシワとかはついてないです、大丈夫」
美しいスケッチだとは思うが、人に見られたいものではなかったのだろう。
「ごめんなさい。勝手に」
「……いや、僕も適当に出しっぱなしにしてたから」
謝ればレオンは首を振った。
「仕事は」
「さっき終わったよ」
「これ、レオンが描いたんだよね」
「えぇっと」
気分を害している様子はなかったが、ぎこちなさや戸惑いを感じる反応。けれど見られたのが恥ずかしいという雰囲気でもない。
「……そう言えば、昔」
あまり触れない方がいい話題だろうかと思った莉緒だったが、ふと記憶に引っかかるものがあった。
「あぁ、そうだ。レオン、小さい頃から描いてたよね。そうそう、すごく上手であれ描いてこれ描いてってお願いした」
庭の木陰でスケッチブックを抱えたレオン。
彼が一心不乱に手を動かせば、白い紙面に美しい庭が浮かび上がった。
「バラの絵、描いてもらわなかった? あれ、すごく花びらの数も多くて大変だったはずなのに、私がねだったからすごく緻密に描いてくれて」
その絵はどうしたのだろう。描いてもらったその後のことが今一つ思い出せない。
「……覚えてるんだ」
「今思い出したよ。そうそう、お屋敷を抜け出して、近くの小川まで行ったこともあったね。石造りの小さな橋がかかってて、あそこも綺麗だったな。今も描くの、続けてたんだ」
「息抜き程度だよ。最近はあんまり描けてないから、微妙な出来のが多い」
「これで微妙なの? すごく綺麗なのに。ね、色はつけないの?」
白黒でも十分魅力的だが、この絵が鮮やかに色付くところも見てみたい。
そう思って訊いてみたが、レオンは苦笑いで肩を竦めた。
「残念ながら絶望的に彩色センスがないんだ」
この口ぶり、どうやら試してみたことはあるらしい。
残念だなと思っていると、ふと彼の顔がパッと輝いた。
「そうだ、リオが塗ってみてよ」
「えっ!? 無理だよ! せっかくの絵を台無しにしちゃう!」
とんでもないことを言い出すと、莉緒はぶんぶん頭を振る。人様の作品に手を出すなんて恐ろしい。そもそも莉緒には絵を描く趣味はないし、観る側としても全く造詣は深くない。それなのに色付けをなんて。
「いくらでも書き溜められるような、ただのスケッチだから気にしないで」
「いやいや」
が、レオンはいいことを思い付いたと止まらない。
「道具はあるんだ。チャレンジしようとしたことはあるから。えっと……ほら、ここに水彩絵の具の一式」
「無理無理」
デスクの下の引き出しを開ければ、出番を待ってましたと言わんばかりに道具が顔を覗かせた。
「リオ、見たい」
じっと見つめられて、莉緒は言葉に詰まった。
レオンは分かってやっていると思うのだ。
至近距離で真っ直ぐ見つめれば、莉緒がすぐに白旗を上げてしまうこと。
ご自身の顔面の威力を理解しての行動に違いない。
「……塗ってる間に、レオンも何か描いて」
「もちろん、それくらいいくらでも」
にこにこ顔で即答されて、莉緒は奥歯を噛みしめた。
「くっ、自分は描くの得意だからって……!」
不公平である。
「リクエストはある?」
余裕の表情で訊かれ、莉緒は眉間にシワを寄せた。
「……確か、人物画は描かないんだっけ」
昔、そんなことを言っていた気もする。実際彼が描くのは風景ばかりだった。
「リオのためなら頑張らないこともない」
「えぇ~、本当に? どうしようかなぁ」
興味はある。描いてほしい。
けれどこの場合、人物画をとなればモデルにできそうなのは莉緒しかいない。自分のこの顔を絵にして欲しいという願望はなく、では自画像をとお願いするのもハードルが高い気がした。結局、レオンの好きなものでいいよと莉緒は特に何も指定しなかった。
そうしてプレッシャーに押し潰されそうになりながら着色作業を始めて数十分後。
「これで勘弁してください……」
全力は尽くしたと、莉緒は筆を手放した。