シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~
15.苦手なもの
湖畔に建つ、古い様式のその建物はホテルだった。
明らかに格式が高い。
何故にホテル? と緊張しながら横並びに屋内に踏み入れると、連れて行かれた先はティールームだった。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
白のテーブルクロスのかけられた丸テーブル。壁際のその席は出窓に面していて、座ればそこから湖畔を一望できた。予約してくれていたらしい。
「アフタヌーンティーのセットを頼もうと思ってるんだけど、リオ、まだこっちに来てから本格的なのはないだろう?」
「ない、え、嬉しい……」
「喜んでもらえて何よりだよ」
本場の紅茶に、三段スタンドにはサンドウィッチ、スコーン、ペストリー。
ティールームの内装は荘厳で美しく、窓からは凪いだ湖が見える。
「贅沢がすぎる……」
おまけに向かいの席では恋人がその美しい顔に満面の笑みを浮かべているのである。
イギリスに来る前に、こんな展開になるなんて誰が予想しただろうか。
「あの、そんなに笑顔で見つめられると食べにくいんですが」
「最近、リオの食べる量がちょっと増えてきたから嬉しくて」
心配かけてごめんね。その言葉が喉までせり上がっていたが、莉緒は直前で言い換えた。
「お腹が空いたって感覚、確かに少し戻って来たような。せっかく違う土地に来たんだから、そこでの美味しいもの、たっぷり味わいたいって欲求が勝ってきてるのかも」
ごめんねと言えば、相手に気を遣わせる。それよりも回復を肯定して、安心してもらえた方がずっといい。
しばらく一緒にいて、莉緒にも分かって来ていた。
レオンは優しい。というか、人に気を遣いすぎる。
莉緒に対する恋情が余計にそうさせるのだろうけれど、一緒に過ごしていると自分のことよりもずっと莉緒のことを優先してくれているのを肌で感じる。
無理をしているのではなく、そうすることが彼の望みであり充足感に繋がるのならそれでいいのだが、莉緒だって彼にお返しがしたいし、心配してくれた分を上回るだけの安心感を与えたい。
莉緒がレオンといると安らげるように、相手にとって自分もそうありたいという気持ち。
「私、イギリスに来た初日は本当にどうしようって困り果ててたけど、レオンに会えて本当に良かった。一人でもここでの生活はいい気分転換になったと思うけど、レオンといるとね、なんかこうすごくホッとするの。こういう感覚、きっと一人では得られなかった」
今でも気付けば思考が働いていた頃に引き戻されることがある。異国の地でのんびりしている自分に、このままでいいのか、早く社会復帰するべきじゃないのかと焦りや不安に襲われることもある。
そんな時に、大丈夫? と傍にいてくれる人がいることの有難さ。
カラカラに乾いていた莉緒の心に、彼は厭わず繰り返し繰り返し水を注いでくれる。
「僕もね、リオにまた会えて良かった」
莉緒は同じものを返せているとは思っていない。けれど、そんな莉緒に彼は幸せそうに微笑んでくれる。もっと、とは思うけれど、彼に対して自分が何かできているのならいいなぁと思うのだ。
◆◆◆
「レオン?」
アフタヌーンティーを堪能して、二人はティールームを後にした。
今日一日の内容に満足感いっぱいでいると、レオンの足は何故かホテルの入口には向かなかった。
不思議に思っていると、彼はエレベーターの昇りのボタンを押す。
「上の階に何があるの?」
ここはホテルはホテルだが、場所柄高層ホテルの類ではない。展望階がある訳でもないので、上の階は普通に宿泊室しかないはずだ。
「……え?」
そう、宿泊室。
「うん、上の階には部屋があるかな」
「まさか」
「運良く空きがあったんだよ」
泊まる部屋を取っている。その事実に莉緒は目を丸くした。
「か、か、帰れる距離なのに。余裕で帰れる距離なのに」
そう、車でなら本当にひょいと帰れる距離だ。けれどレオンはさらりと告げてみせる。
「また雰囲気が全然違うから。あと莉緒とお泊まりしてみたくて」
「いや、でも準備」
何も用意がない。服もメイク道具も何もかも。
「ごめん……」
が、咄嗟にそう言うとレオンが途端にしょんぼりしてしまったので、莉緒はますます慌てた。
「いや、あの、嫌だって話じゃなくて」
「女の子には準備が色々あることは分かってたんだけど」
「そう、そうなの、こうね、色々とほら、誤魔化しが必要というか。色んなものの力を借りて上方修正したいと言うか」
一緒の家で暮らしているのだ。すっぴんを晒したことがない訳ではない。それでも関係性が変わって、莉緒はよりレオンに可愛いと思ってもらいたくなっているし、素敵な場所でなら少しでもそれに似つかわしくありたい。
「リオはそのままでも十分可愛いよ。それに必要なものは頼めば揃えられるから」
「う、うん……?」
いつもの可愛い攻撃と、さらりと加えられた発言。
薄々、いや、実はかなり確信しているのだが、レオンはもしかしなくともかなりのエリートで、高級取りなのではないだろうか。暮らしぶりや話に聞く内容がところどころ莉緒の生活水準をかなり上回っているのである。
彼の“普通”について行けるだろうか、と時折庶民な莉緒は不安になる。
「リオ?」
呼ばれて顔を上げれば、いつの間にかエレベーターが到着していた。
「……リオ?」
莉緒は一瞬だけ躊躇して、それからえいや、と小さな筐体に乗り込む。
「ごめん、一方的なサプライズって迷惑だったよね」
その躊躇いを、彼はマイナスに捉えたようだった。
「いや、違うの」
けれど全くそういうことではない。莉緒は彼の腕をきゅっと掴んだ。
「レオンって苦手なものある?」
「それはまぁ。食べ物だと酸っぱいものが苦手だし、ホラーものとかも得意じゃないよ。あとこれは秘密だけど」
「だけど?」
エレベーター内には他に誰もいない。なのにわざわざ耳元まで寄って彼はこっそり囁いた。
「実は結構音痴」
「え」
そうは見えない。ものすごい美声を披露してくれそうなのに。
けれどそれもこちらが一方的に抱く理想のイメージなのだろう。
「私はね、狭いところが苦手」
今度は、と莉緒は自分の苦手を話す。
「閉所恐怖症?」
「うーん、プラス暗所かな。暗くても、空間自体が広ければ全然平気なんだけど。いつからかなぁ、狭くて暗いところがすごく怖くなって。息が上がって苦しくなるんだよね」
何がそんなに怖いのだろう。
暗くて狭いは駄目だが、暗くて広いだと大丈夫なのがよく分からない。狭いのが怖いのは、閉塞感を覚えるからか、空気が足りなくなる恐怖があるのかもしれない。
「小さい頃は平気というか、寧ろ好き好んでそういうところに潜り込んでたのに。ほら、子どもってそういう場所、秘密基地とかにして遊んだりするじゃない? でも今は一人きりでそういう空間はちょっと無理だなぁ。なんで今は駄目なんだろ、それはよく分からないけど」
「――――」
そんな莉緒にとってエレベーターは暗くはないので何とかなるが、好きか嫌いかで言えば嫌いな空間ではあるのだ。
チン、と軽やかなベルの音が、目的階への到着を告げた。
レオンの腕を掴んだまま莉緒は一歩足を外へと向けたが、何故かぐんとつっかえる。
「レオン?」
今度はレオンの方の足が鈍っていた。
「あぁ、ごめん。いや、そういうのって大変そうだなって。日常生活してると、エレベーターとか乗る機会は沢山ありそうだし」
ハッとしてエレベーターを降りながら、レオンはそう言った。心配させてしまっただろうか、と莉緒は言い足しておく。
「あ、でもほら、こうして人と一緒だと大分軽減されるの。だからそこまで深刻なものじゃないよ。閉所プラス暗所って状況だって、そもそも滅多にないものだし」
だから安心してと笑いかけたが、それでもレオンは心配そうな表情をしばらく改めてくれなかった。