シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~
20.焦燥
「リオ」
口の中が、正確には舌の端が痛い。
しばらくやってなかったのに、久々にすると一日中気になってしまうではないか。
莉緒は口内で舌にできた噛み傷を確かめ、眉間にシワを寄せた。
「リオ?」
寝ている間に噛んでしまったのだ。何か痛いなと朝鏡を確認すれば、二か所ほど赤く出血の跡があった。
初めてのことでもないのでどうということはないが、事あるごとに走る微かな痛みは鬱陶しいものではあった。
「リオ!」
大きな声に、ハッと顔を上げる。
そこには今日も仕事に出ていたはずのレオンが立っていた。
「あ、おかえりなさい」
帰宅に全く気付かなかった。
いけない、と莉緒は覗き込んでいたスマホを置いて立ち上がる。
「ごめんなさい、ボーっとしてた」
慌てて時計を確認すれば、夕方というよりはもう夜に差し掛かっていた。
「大丈夫、夕飯準備できてるよ。あとは温めるだけ」
「それは別に心配してないよ。ごはんだって嬉しいけど、毎日作らなくてもいいんだよ。外食とか出来合いのものとかでも」
「そんな、せめてごはんくらい作らせて。作るの、私嫌いじゃないし」
それくらいしなければ、本当に何もしていないことになってしまう。
特に目的のない莉緒のロンドン滞在。日中にやることがなくなれば困るというのもある。
「……リオ、それ何見てたの?」
レオンは何か物言いたげな顔をしていたが、結局は開きかけた口を一度閉じた。その代わりに別のことを問う。
「いや、特に何と言う訳では。ネットサーフィン?」
示されたスマホは画面が点いたままだった。けれどサイトの内容は全て日本語だ。見られたところですぐにどうこうということはない。
そう思った莉緒だったが。
「あっ」
レオンは難しい顔をして、莉緒のスマホを手に取り上げた。画面をじっくり眺めて、ちょいちょいとスクロールさせる。
「レオンっ」
「……転職サイト?」
慌てて止めた莉緒だったが、一発で言い当てられ、
「違います」
不自然なくらい即座に否定してしまう。
「あのね、リオ……」
バレバレなのは、莉緒自身にも分かっていた。
「どうして転職サイト?」
「ふ、不思議なことはないでしょ。必要なことだよ。いつまでもフラフラしてられない。そのうち働かなくちゃ」
確かに、今日明日直ぐに困るような困窮状態にはない。いくらかの余裕はある。
けれど働いていない自分というのは、思った以上に自分を追い込むなのだ。
「それはそうだろうけど。でも、それは今そんなに切羽詰まった顔してしなくちゃいけないこと?」
しなくちゃいけないかどうかと問われれば、莉緒はイエスと答える。
「だってレオン、私何もしてない。勝手に潰れて、逃げて、人生の休暇ですって海外で何もかも人様のお世話になってて、贅沢な暮らしして、でもその贅沢な暮らしはレオンに支えられてて、レオンはそれはもう立派に働いてて、社会人としての責務を果たしてて、納税して、自分で自分の面倒をちゃんと見れてて、有能で」
「リオ」
きびきびと働くレオンを見て、ハッとしたのだ。
自分が少し焦っていることは自覚している。けれどあの穏やかな時間だけが流れていた湖水地方から、このロンドンまで連れて来てもらえて良かったと思った。
おかげで、莉緒は自分が随分ぼけっと日々を過ごしていたことに気が付けたから。
「何もしてないの、生産性がない。将来のことちゃんと考えなきゃ。空白期間があんまり長いと転職にも不利だろうし、私もほら、大分復調してきるから、だから別におかしなことじゃないでしょう? やらなくちゃいけなことを、やって当たり前のことをしてるだけだよ」
特別なスキルを持っている訳ではない。輝かしい経歴もない。加えて莉緒は女性だ。
今のこの世の中では男性よりもチャンスは少ない。正社員で働きたいと考えていても、もしかしたら非正規の道しかないかもしれない。
アンテナを張って、情報を収集して、方向性を決めて。
それくらいは今からしておかなくては。
「リオ、ストップ。落ち着いて」
景気も良くないし厳しいんだよとそう言おうとした莉緒の口に、やんわりと手の平が当てられた。
「言いたいことが、気持ちが想像できない訳じゃないけど、ちょっと焦りすぎだよ」
「……でも別に」
レオンが私の人生に責任を持ってくれる訳じゃないのに、と言いかけて寸前で飲み込んだ。
もちろん責任など持つ必要はどこにもないし、莉緒だって持ってほしいと思っている訳ではない。
「社会参画してないと、他の人と同じでないと、自分がやるべきことをやってないような、義務すら果たしていないような気になるんだよね。働いてるって、実はそれだけで何か最低限保証されてるような、社会に対しての免罪符を得られた気持ちになるものだから」
「――――」
焦りの正体を一気に言い当てられてしまって、言葉を失う。見透かされた感覚に、じわじわと頬に熱が上がる。
「ごめん」
が、次に唐突に謝られ、莉緒は戸惑った。
「な、なにが?」
謝られる意味が分からなかった。
「僕がリオをロンドンに連れてきたから。僕の姿や、忙しない街の様子がリオを焦らせたんだ。リオが湖水地方を選んだのは正解だった。あそことここはあまりに雰囲気が違う。あそこなら、そんな風に気が急くこともなかった」
「……遅かれ早かれ同じようなことになってたよ。常に、元からあった焦りだもん。それこそ会社を辞めるかどうかってなった時から、じゃあ次はどうするんだって」
今莉緒の中にある不安は、次の勤め先を、身分を、安定した自分を手に入れることでしか解消できない。
「……リオ、あのさ、正直リオはまだそんなに健康じゃないと思うよ。少しは自覚もあるんじゃない?」
「…………」
「物事には順序があって、それなりに時間をかけなくちゃならない工程だってある。今まで心身の調子崩した同僚を何人か見てきたけど、我慢して我慢して調子を崩した後って、それがクセになるように思う」
レオンの言うことは分かると思った。心当たりがあると。
そんなことないよ、大丈夫だよということの無意味さ、信用のなさを悟って、莉緒は開きかけた唇を再び閉ざした。
「どれだけ気が急いても、じっくりゆっくり自分を労わった方が良い。中途半端な状態でぶり返したら、前よりきっと酷いことになる」
リオ、と呼び掛けたレオンは腰を屈め莉緒と目線が合わせた。
「弱ってる時は、使えるもの全て使って甘えるといいよ。甘える相手がいるって有り難いことだ。リオの両親はリオを心配しているし、友達だっているだろうし、世の中にあるサービス、公的援助、リオを助けるものは色々ある」
深呼吸して、と言われて、別に呼吸は乱れてないけどなぁと思いながらも二度三度と深く息を吸っては吐いてを繰り返してみた。
「じゃあほら、手始めに身近な相手に甘えてみて?」
パッと両手を広げられて、ほらと誘われる。
そろそろと莉緒がその胸に身を寄せると、柔らかなハグが全身を包んだ。
「ねぇ、リオ。リオはここに、休息を取りに来たんだろう?」