シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~
24.謀り
「あの、すみません」
莉緒の脳内は完全に混乱していた。
何を言われているのか、それがどういう意味を持っているのか全く理解できない。
「えっと、今、お名前……レオン・ゼーゲルと?」
「そう言ったけど」
「こ、こちらのお宅にお住まいで」
「ここは別宅だよ。今日はちょっと忘れ物に気付いて戻って来てたけど」
何も分からない。
ゼーゲル家のお屋敷、レオン・ゼーゲルと名乗る男。
けれど、莉緒はもう一人それに当てはまる人を知っていて。
何かの間違い、聞き違いではないかと思うが、目の前のこの人がそういうことをする意味も分からない。
それに、“昔この庭で一緒に遊んだ”とまで言われてしまった。
全くの第三者がそれを知り得ることはあるだろうか。知っていて、利用する価値のある情報だとも思えない。
「……あなたの親戚に、あなたと同性同名の方がもう一人いたりします?」
「は?」
怖々と莉緒は訊ねる。
「実は双子だとか」
そっくりそのままではないが、二卵性という可能性はあるかもしれない。
そうであってもレオンと名乗る男が二人いることには代わりない、もうその時点で何かがおかしい。
分かっていても、何か勘違いがあって、それを解きさえすればすっと事態が把握できるのではないかと、そう願う心があった。
「…………あぁ、なるほど」
レオンと名乗る彼は最初不可解そうな顔をしていたが、莉緒の様子を見ているうちに何か合点が行くものがあったらしい。
ジャケットの胸ポケットから取り出された財布から、一枚のカードを差し出された。
運転免許証だ。
そこに書かれた名前を見て、ひゅっと息を飲み込んだ。
レオン・ゼーゲル。
公的証書に書かれたものに、偽りがあるとはまず考えられない。
「君のレオン・ゼーゲルにも確認してみた方がいいんじゃないか?」
そう言われ、促されるままにスマホを取り出していた。
確かめたくないと思うと同時に、きっと直接聞けば何か納得のいく答えをもらえると期待する自分もいた。
お昼間だが、今日は休日。かけてもきっと問題はない。
震える指先で通話ボタンを押せば、三つコール音を数えた後聞き慣れた声が鼓膜に響いた。
『もしもし、リオ?』
電話の向こうの声は、明るく弾んでいる。今日、莉緒がそっちへ帰る予定だから。
「あの、レオン」
呼びかけて、自信がなくなる。
そんなはずない、そう思うけれど、今口にした名前が彼の本当の名ではなかったら。
自分は今、誰に呼びかけているのだろうと。
『…………リオ?』
どうしたの、と呼び掛ける声が遠ざかる。耳許からスマホが抜き取られたから。
次の言葉を見つけられない莉緒に焦れたのか、代わりに目の前の“レオン”が電話を取った。
「オレの知らないところで、随分勝手なことをしてくれたみたいだな?」
絶対的な自信の滲んだ声。
嘘だ、と思うのに確信する。
「レオン・ゼーゲルとして、楽しく過ごせたか?」
目の前の男は“レオン・ゼーゲル”なのだと。
でも。
二人は何か会話を続けている。けれどその一片も莉緒の耳には入って来ない。
気付けば足が震えていた。喉が詰まって痛い。
悪い予感は往々にして当たる。だから聞きたくないのに。聞きたくなどないのに。
「リオ」
気が付けば、目の前にスマホが差し出されていた。
けれど受け取ろうにも、持ち上げた右手はぶるぶる震えていて。
それを見て取った“レオン”が、莉緒自身に代わりその耳許にスマホを宛がう。
「なにかの、間違いでしょう……?」
そうだよって、そんな男からはいますぐ離れて、早く帰っておいでって言って。
そう願っても、届かない。
『…………ごめん』
「――――」
一言告げられた謝罪に、ひゅっと心臓が竦み上がったのを感じた。
ごめんとは何が。何に対する謝罪なのだろう。
『そこにいる男が言うことが、全て正しい』
「うそ」
ドクドクと激しい拍動がうるさい。彼の言葉が聞こえない。
『僕はレオン・ゼーゲルじゃない』
「えぇ?」
冗談はやめて、と言いたくて言えなくて。崩れた笑みが口元を引き攣らせた。
『ごめん』
「説明、して」
彼はこんな冗談は言わない。嘘は言わない。
違うと言えば、それが真実なのだと莉緒には分かってしまっていた。
だからせめて、何か理由があるのだと、それを教えて欲しくてそう言ったのに。
『できない』
返って来た言葉はあまりに短く、残酷で。
「意味が分からない」
『ごめん』
言い募ろうとして、その無意味さに莉緒は気付いた。何をどう訊ねても、謝罪の言葉以外は出て来ないだろうことを感じたから。
言葉を失った莉緒を見て、“レオン”は再び代わりに会話を始めた。
「……それはお前に言われることじゃない。え? 第三者の関わることに、そこまで私情は挟まない」
やがて莉緒の意思とは別に通話は終えられ、スマホを返される。
何か言わなきゃ、と相手を見上げたが、結局何も出てこなかった。
「リオ、君を騙すような真似をして悪かった。オレもまさか自分の名前がこんな風に悪用されているとは思わなくて」
この人も被害者なのだろうか。被害者という言い方は正しいのか。
この人“も”ということは、自分は被害者なのか。
彼の言った騙されていたという言葉が、莉緒の脳内でリフレインする。
「リオ、君のことは任せられた」
「……任せられた?」
「色々混乱していると思うけど、全てこちら側の不手際、不始末だ。君、アレのところにいたんだって?」
言われて、あぁそうかと思い出す。
今日、これからロンドンに帰るところだったのだ。彼のところに。
けれど今戻って、呼び鈴を押して、あの家の扉は開くのだろうか。
「ロンドンにあるゼーゲルの屋敷に君の部屋を用意する。君が唐突に帰る場所を失った責任の一端は、オレにもあるだろうし」
帰る場所を失った。
彼は、莉緒の帰宅を望んでいない。その事実を突き付けられる。
「……結構です」
けれど、“レオン”の申し出を莉緒は即座に断った。
そんなことをしてもらう意味が分からない。そんな必要はない。
それに、泊めてもらうような間柄ではない。そのはずだ。
思い知った。だって、目の前の彼はよく知らない人間だ。
けれど、同時に思う。
“彼”だってそうだったのだと。
あの時は安易に縋ってしまったけれど、似たような状況だけれど、でも今度は同じ選択はできない。
これはつまり、よく知らない人を信じてはいけませんという、子どもの頃に散々教え込まれた状況だから。
その教えを、莉緒が守らなかったから。
だからきっと今になってこんなことになっていて。
「ロンドンに戻ります。ちゃんと、話を聞かないと」
嘘があったことを、もう否定はできない。けれどその訳を聞く必要はある。こんなに納得できないことを、受け入れられる訳がない。
「自分のことを根本から騙していた男だよ? 得体の知れない男。そんなところに戻るなんて、本気で言ってる?」
「で、でも、そう、荷物も向こうにあるし、まさかそれをそのままにしておけないし」
そうだ、あそこには荷物がある。異国の地で、そう手放せるものではない。どう考えても莉緒はもう一度あそこに戻る必要がある。
なのに。
「君の荷物はもうこちらに向けて送られる手筈になっている。ロンドンに戻る頃にはこっちの屋敷に着いてるはずだ」
「は?」
さらっと告げられた言葉に、莉緒は絶句した。
「話はついている。向こうがそうさせてくれと言った」
「話って、私とレ、彼の話でもあるのに」
莉緒は問題の中心にいるはずなのに、当事者だというのに、さっきからその本人を無視してとんでもないスピードで話が進んで行っている。
あまりに自分を軽視されている状況に、動揺が沸々とした怒りに変換されていった。
「いい加減にして、こんな滅茶苦茶な話ってない」
「でもアレはもう君と対話する気がない」
「それはあなたが判断する話じゃない」
しばし、“レオン”と対峙する。
本物のレオン・ゼーゲル。
彼が、本当は幼少の頃莉緒といくつかの夏を過ごした相手で。
「……もういいです。もう、いい」
深く深く莉緒は息を吐き出した。
何も分からない。教えてもらえない。自分は混乱している。
この状況では何も進まない。一度冷静になるべきだということは分かっていた。
「リオ」
踵を返した莉緒を呼び止める声。
呼ばないで。あなたじゃない。あなたがレオン・ゼーゲルかもしれないけれど、でもそうではない。
「リオ」
呼ばれる度に、心が軋む。
「荷物も来るし、一旦ウチの屋敷に」
一人になりたいと思った。一人で、考えたい。落ち着きたい。
「結構です」
「そう言わずに。急にこんなことになって困ってるだろう」
「いえ、自分でホテルを取りますから」
「じゃあウチの系列のホテルに部屋を用意する」
「してもらう理由が」
断りながら、莉緒はぎょっとした。
ウチの系列のホテル?
名家だということ以外知らなかったが、ゼーゲル家というのはホテル経営をしているらしい。この様子だと、どんな高級ホテルが出て来るか分からなかった。
「理由はあるんだよね。アレは関係なく、ゼーゲル家として」
「――――」
話がよく見えない。
莉緒は胡乱げな瞳で相手を見つめた。
「知りたい?」
問うてくる瞳がどこか面白そうな色を宿しているように感じるのは、莉緒の心が過剰反応しているからか。
「……あなたの言うことが、本当のことかなんて分からない。それともあなたなら、私の知りたいことに全部答えてくれるって言うの?」
「んんー」
少しだけ考える素振りを見せて、彼は答えた。
「オレは関係者ではあるけど、当事者かと言われれば少し違う。そういう立場だ」
だから。
「言えることと言えないことは、確かにある」
「――――」
結局、何一つ期待できないではないか。
失望感でいっぱいになりながら、今度こそ莉緒は歩き出す。
「一つだけ。泊まるところを決めたら、連絡してほしい。オレの番号を……」
「嫌です」
「つれないな。君と一緒にここで楽しく過ごしたのはオレなのに」
「っ」
後ろから追う声にそう言われれば、心は揺らいだ。
「心配なだけだよ。ロンドンで一件も犯罪が起こらない訳じゃない」
彼が純粋に名前を騙られた“被害者”なら、莉緒の態度は理不尽に思えるだろう。
「それに君がどこにいるか教えてくれたら、それをアレにも直接、ちゃんと伝えてあげる。会いに来てくれるかもよ?」
続けられたそのセリフは、嘘っぽいと思ってしまったが。