シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~
30.瓦解
『勘付かれたかもしれない』
その電話は、一日の仕事を終え帰宅してすぐに掛かってきた。
食事の準備と思っても気力が湧かずソファに投げ出していた重い身体を、彼は慌てて起こす。
「話が違う!」
『それはそうだが、そもそもこんな事態になってるのは誰のせいだと思ってる』
電話の向こうの声は憎たらしいくらい落ち着いていて、そのことに更に苛立ちが募る。
『さっきから電話もメッセもずっと入れているが、一向に反応がない』
いや、少しは焦りもあるのか。
相手の声音を探りながらも、彼は苛立ちと動揺を押さえ詰問した。
「何故そんなことになってるんだ。最新の注意を払うという約束だっただろう」
レオン相手にこんなに強い口調で出るなんて珍しいことだが、彼女の安否を思えば自然とそうなってしまう。
『ソフィアだよ』
溜息とともに吐き出された名前は、馴染みのないものだった。だが、すぐに思い出す。
数年前にゼーゲル家本家筋に生まれた、娘の名前だと。
直接声を交わしたことはない。遠くから眺めたことなら何度か。
出産祝いを送ったきり、それ以外にはどんな接点もなかった。
『いや、ソフィアがどうと言うか、こちらの想定不足だ。ソフィアと二人きりになる状況、そちらに探りを入れられる可能性、ソフィアがまさかお前の写真の存在を把握しているとは思わなかった』
「写真?」
『ソフィアはお前の名前も知らない。だが、どうもリオに訊かれた特徴を持つ男がいるとピンと来たらしい。ウチにあるアルバムに、少量ではあるがお前が写った写真が収められてたのを、あの子は記憶してたんだよ』
それを聞いて頭を抱える。
ソフィアに罪はない。彼女は何も知らないし、訊かれて心当たりのあることを答えただけ。
だが、腹の底から息を吐き切っても、冷静になるにはまだ足りない気がした。
『さっき、勘付かれたかもしれないって言い方をしたが』
電話の向こうの声がワントーン沈む。
『全て思い出したの間違いかもしれない』
「はあっ!?」
もし今目の前にレオンがいたら、胸倉に掴みかかっていたかもしれなかった。意味もなく勢いよく立ち上がる彼に、電話越しに苦々しい声が返ってくる。
『確認したアルバムに、あの屋敷を写したものが多々あった。急に体調が悪くなったと言って帰ったらしいし。ひどく顔色も悪かったと』
「それはもう確実に何か、少なくとも一部は思い出してるだろ」
嫌な予感が全身を駆け巡る。
必死に誤魔化してきたことが、ここにきて全て露呈し始めているような。
『オレを見ても、レオンともう一人がいるという事実を認識しても、特に何を思い出した様子でもなかったんだがな』
そう、彼女は思い出さなかったのだ。
いくつヒントがあっても、微かに思い出があっても、本物のレオン・ゼーゲルがいるという明らかにおかしな事態が明るみになっても、それでも思い出した風ではなかった。
だから、彼は名乗れなかった。
名乗るべきではあったけれどずるずるとそれを先延ばしにして、そうしてレオン本人にバレて、問題を大きく、ややこしくした。
「……宿泊先のホテルは」
『戻っていない。戻れば連絡が入るようになっている』
実は彼はゼーゲル家において、著しく身分が低い。いや、低いというのは少々語弊があるかもしれないが、強く出られる立場ではない。
それなのに本家の長男、次期当主の名を騙った。それが本人にバレた。
そしてその場には莉緒がいた。
本物のレオン・ゼーゲルの前に、彼の弱みが全て晒されていた。
状況としては最悪。
けれど大切なことは決まっていたのだ。
莉緒を守ること。莉緒の心を、守ること。それだけは譲れないから。
「もし、思い出してたらどうなってると思う」
『パニックを起こしてないといいが。あとは……そうだな』
少しの間を置いて、もう一つの可能性を口にされる。
『ゼーゲル家に対する不信感が止まらないだろうな。オレも、お前も、加担したと見られる。ある意味そこに間違いはない』
「――――そうだな」
レオンは己を悪と見做される可能性を厳然と認めているが、その声にはあまりに揺らぎがなく、罪悪感のようなものは感じられなかった。
傲慢だが、優秀。巨大なゼーゲル家を背負って立つには適した性質。
そんな時期当主様に彼は嫌われている自覚があったし、同時に自分も好ましく思ってはいなかった。関わり合いにならずに済むのなら、極力避ける。
だが、殊莉緒に関してだけはそうもいかない。
「こちらは、オレは、加害者で原因だ。それこそ、記憶から消し去りたいほどに」
『そう思うなら』
乾いた笑いには侮蔑が多分に含まれていた。甘んじてそれを受け止める。
『初めから手を差し伸べなければ良かった。助けるにしても、もっと距離を取る方法はいくらでもあった。それなのに、愚かしくも一線を超えるような真似をして』
正論だ。故に容赦なく突き刺さる。
自分の気持ちを優先させた。軽率な嘘を吐いた。それを今になって莉緒を守ることが最優先だなんて、ちゃんちゃらおかしい。
本当に彼女のためを思うならもっと選べる手段はあったと、彼にだってそんなことは分かっていて。
『お前を本当にロクでもないヤツだよ』
だからその言葉は受け入れる他なかった。否定の余地はない。
そこで通話を終え、先ほど脱いだばかりのトレンチコートを羽織り直す。
今まで散々無視していた番号を、今になってダイヤルする。
しかし――――
『お掛けになった電話番号は電波の届かないところか、電源が入っていないため――』
今までの行いが返ってきたのか、作り物の音声が淡々と決まったメッセージを読み上げるだけだった。
もうとっくに外は夜に沈んでいる。
精神的にダメージを受けて無防備な状態になっている彼女がどうかトラブルに巻き込まれてなどいないようにと願いながら、当てもないのに彼は戸外へ飛び出した。