シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~

32.あの夏の男の子


「レオンと僕は従兄弟の間柄だ」


 触れた手は、エリオットを拒絶しなかった。
 ただし、握り返してもくれない。ただされるがままに手を引かれているだけといった状態。
 すんすんと莉緒が鼻を鳴らす音が、時折背中から聞こえる。


 繋がったのは、何十回目の電話だっただろう。
 呼びかけても全く反応はなかったが、スマホの向こうからは雑多な音が微かに響いていた。運の良いことに、チラッと聞こえた店の宣伝音楽に覚えがあった。
 どうかその場から動かないでいてくれと願いながら、必死に人混みの中を駆けた。


「従兄弟だけど、それにしてもよく似てるって思うでしょ。よく周りからも言われた。二人とも、すごく母親似なんだよ」


 久々に触れた手は夜の空気に晒され、随分と冷たくなっていた。
 早く暖かいところへ連れて行きたいと思いながら、沈黙を避けるようにぽつぽつと彼はもう誤魔化しても仕方のない自身について語る。


「僕の母親と、レオンの母親が双子なんだ」


 レオン・ゼーゲルではない。
 エリオット。エリオット・ゼーゲルが彼の本当の名だった。
 先ほど、莉緒がはっきりとその名を彼に向けて口にした。


「と言っても、写真でしか見たことないんだけど」
「……え?」
 親戚は自分の事情を皆知っているし、それ以外の他人に深入りはさせたことがない。
 だからこうして自らの口で語るのは初めてのことだった。
「うーん、要するに不義の子なんだよね」
 どう開示すればいいのか、よく分からない。
 ただ、なるべく重くならないように。そう意識して何てことない口調で言ってみたが、途端に握っていた指先が震えた。
「それ、私が聞いていい話」
「うん、聞いてほしい話」


 レオンの言うことは正しかった。
 もっと早くにこの話をするべきだった。どうせ、いつかは彼女にバレて、傷つけてしまうのだから。
 一線を超えた時点で、他人の名でい続けられはしないと分かっていたのだから。
 自分のどうしようもなさに改めて呆れながら、エリオットは続ける。


「不倫の末にできた子なんだ。母は未婚だったけど、相手に家庭があってね。妻子持ちだって分かってて付き合ってたらしい」
 でも、そんな関係がいつまでも続くはずがなかった。
「相手もそこそこ格式のある家で、事を大きくしたくなかった。もちろん、妻子と別れて母をというつもりもなかった。母の方は本気だったらしくて、だからできた子どもを絶対に産むと決めていたみたいだけど」
 しかし結局、そもそもの二人の望みが別のところにあったのだ。関係を続けられるはずもなく、エリオットが生まれる前に破局を迎えた。
 破局を迎えるに際してはゼーゲル家の人間が事前に手を回していたし、醜聞が明るみに出ないように手を打たれた。
 エリオットの母にしてみれば、家の人間のせいで別れさせられたようなものだ。もう二度と会わないというのが相手と結ばれた条件の一つで、愛人関係すら続けることは叶わなかった。
「母は僕を生んで一年もしないうちに、ふらりと出て行った。特に子どもに愛情はなかったらしい。というか、憎しみの対象だったのかもしれない」
「…………」
 ゼーゲル家に捨て置かれたエリオットは、そのまま伯母夫婦の元で育てられることになった。自分が彼らの息子ではなく甥であること、母の経歴については、知りたがらずともそのうち自然と耳に入ってきた。
「今はどこで何をしてるんだろうね。知ろうと思えば知る術はあるけど、今更もうどんな感情もないかな。それは向こうもそうだろうし」


 鬱屈した感情は、今はもうほとんどない。そういうところは通り過ぎていた。
 エリオットは、ただただ自分の生い立ちを“単にそういう事実があるだけ”と淡々と受け止めている。強がりなどではなく、心を割いたところでどうにもならないことだと頭が完全に理解しているから。


「伯母夫婦にいびられたりはしなかったよ。ただ、やっぱり距離はあったよなぁとは思う。持て余され、線を引かれていた。オレは息子じゃないから、レオンと同じように愛情をかけられた訳ではない。でも、そういうものを彼らに求めるのもおかしな話だ。無責任にも妹が置いていった子どもを、引き受けてくれただけでもう十分だと思ってる。衣食住、教育、ゼーゲル家としてふさわしいあれこれを全て与えてもらった」
 身の置きどころのなさはいつでも感じていた。
 卑屈な気持ちが心にあったのも事実。
 馴染めず、エリオットはいつも少し離れたところに立っていた。その姿勢が、ますます彼らとの距離を確固たるものにしたのだと思う。
「夏になると、あの湖水地方の屋敷に行くのは習慣だった。もちろん、自分もちゃんと連れて行ってもらってた。でも色々と複雑だったのは事実だから、離れて、独りで過ごすことが多かった」


 レオンと一緒に並ぶのは嫌だった。
 大人が向ける視線が、自分に向くものとレオンに向くものでは明らかに違う。
 望んでそう生まれたのではないのに、なんて理不尽なのか。
 心を乱すのが嫌で、一人でいることを望んだ。
 庭をスケッチしていたのも、絵が描きたいというより、一人で、人に声を掛けられず時間を潰す方法を求めていて辿り着いたものだった。
 莉緒はエリオットの絵をすごく褒めてくれるが、動機は割に不純だ。


「ある時から、両親に連れられて小さな女の子が遊びに来るようになった。自分より年下の、異国の女の子」


 庭でスケッチしているところを見つかって、名前を聞かれて。
 そんなつもりはなかっただろうけれど、少女には自分の生い立ちなど何も関係がなくて、ただただエリオットをエリオットとして扱ってくれた。


 特別なことではない。知らないのだから、そんなのは当たり前だ。
 分かっていても彼女と一緒にいる時間、束の間彼は楽になれた。屈託なく笑いかけてくれる彼女はとても愛らしかった。


「君は僕ともレオンとも会っていたけれど、それはいつでも別々だった。遠目に見ることはあったけど、レオンと一緒にいる時に、声をかけたことはなかったなぁ。庭の片隅で会うだけ。もしかすると、妖精かなんかの類だと誤解されてるんじゃないかなって思う瞬間もあった」
 内緒ね、と囁き合って、いつも庭でしか過ごさなかった。
 あの頃のことを脳内で思い浮かべ、エリオットはしみじみと息を吐く。
「夏に少し会うだけの女の子だったけど、本当に毎年の楽しみだったんだよ」
「…………私も、楽しみにしてた」
「うん。だから、ある夏、君が母国に帰っちゃったって聞いて、あれ、すごくショックだったなぁ……」


 まだ子どもだったエリオットにとって、日本は本当に遠い国だった。二度と会えないと思うくらいに、遠い国。
 それに、名前を知っているだけ。電話番号も住所も知らない。
 もう二度と会えない相手だと、そう思っていた。


「でも、数年後に旅行でリオがまたこっちに来て、ウチにも挨拶しに来てくれて、それが本当に嬉しくて」


 彼女を喜ばせたくて。とっておきの思い出を作りたくて。


「調子に乗ったんだ。バカみたいに浮かれてた」
 次に吐いた息には、後悔が深く濃く混じっていた。



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