シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~
33.欠けていたその部分を
二人でとぼとぼと夜道を歩く。
莉緒は子どものように手を引かれて彼の後を着いていくような状態だったので、彼が色々と聞かせてくれている間、ただその背中を眺めることしかできなかった。
一体、どんな顔をして彼は話してくれているのか。
辛いのではないか、胸のうちは荒ぶっているのではないか。
気にかかるけれど、顔を見られたくないからこういう歩き方になっているのではないかと思ったら、おいそれと覗き込むようなこともできない。
思ってもみない彼の寂し気な半生を、ただ黙って聞き続けることしかできなかった。
やがて二人が辿り着いたのは、彼の暮らす家だった。
「リオの嫌がることは何もしない」
固く閉ざされていた門扉が、今日は莉緒に対して開かれる。
「リオに危害を加えることもない。きっと今、ゼーゲル家に対して不信感がいっぱいで、信じられないかもしれないけど」
「…………」
玄関扉を開けたところで、彼は莉緒にそう選択肢を与える。
自分は一歩家の中に入るが、莉緒をそのまま引き込むことはしなかった。繋いでいた手は、そっと解かれていた。
「無理なら、タクシーを呼ぶよ。ホテルまで送る」
「――――まだ」
「ん?」
「まだ途中までしか話、聞けてない。もう今日は、全部話してくれるつもりだったんだよね?」
自分の意思で、判断で、責任で。莉緒は決める。
目の前のこの人を信じると。
「だったら聞きたい」
莉緒は知りたいと思っているし、きっと彼は話さなければ背負っている荷物を下ろせない。
「――――うん、分かった」
久しぶりに踏み入ったリビングは、なんだかすっかりよその家だった。ここでしばらく暮らしていたはずなのに、全てのものと距離を感じる。
「リオはその、どこまで思い出した?」
差し出されたマグカップは、手のひらから身体全体へとじんわりと熱を伝えた。
中身はたっぷりのカフェオレだ。
「……あの日、エリオットと約束してた。庭の奥に秘密の、とっておきの場所があるんだって。そこを見せてくれるって」
「うん」
燻る湯気を眺めながら、もう一度答え合わせをするように莉緒は口を開いた。
「待ち合わせの時間に、四阿に行ったの。でも、時間を過ぎてもエリオットは来なかった。数分待ってから、木立の中から物音が聞こえて、私、エリオットがいるのかなってそう思って」
「……うん」
「エリオットじゃなかった。大人の男の人達だった。すごく怖い顔して、こっちを見て」
ぞくり、思い出しただけでも今も震えが走る。あんなに恐ろしい思いをしたのは、後にも先にもあれきりなのではと思う。
「マズいって直感した。逃げなきゃって走り出して、でもすぐに捕まって、鳩尾を……殴られた?」
仕事が苦しかった時もじわじわと喉元を締め上げられるような、あ、もう駄目かもと追い詰められる感覚はあったが、それとは種類が全く違う。
即座に命の危機を感じるレベル。相対した人間から真っ直ぐ向けられる害意は、とんでもない威力を持っていた。
「気が付いたら暗くて狭いところに入れられてた。拘束されてて、口も塞がれてて。助けを呼べる状況じゃなくて」
それでも助けてほしくて。
テープで塞がれたその下で、必死に声を出そうとする。けれどロクな音にならない。どんどんと気持ちは焦り、呼吸は苦しくなり、多分酸欠で意識を失ったのではないだろうかと莉緒自身は睨んでいるが。
「そこまで。そこから先ははっきりしない。私、どうやって助かったの?」
「…………僕が、見つけた」
絞り出すような声で、エリオットが答えた。
「あの日、リオの言う通り僕は約束の時間に遅れた。着いた時に四阿には誰もいなくて、もしかしたらもう帰ってしまったのかもしれないとそう思った。しばらく待ったけど、やっぱりリオの姿は見えなくて、だから一旦その場を後にした」
そうしたら屋敷へと戻る道すがら、手入れをしていた庭師が言ったらしい。
“おや、エリオット坊ちゃん、今日はおひとりですか”と。
“今日はあのお嬢さんと一緒じゃなく、別々なんですね”と。
「その瞬間、おかしいと思った。庭師の口ぶりだと、リオは奥の方へ行ったっきり戻った様子がない。でも、四阿にはいない」
迷子になってる? 何か他に夢中になるものを見つけてしまった?
色々な可能性を考えながら、彼は待ち合わせ場所に戻った。そうしてその周辺を探った。
「そうしたら、茂みの中からリオの靴が片方だけ転がってるのを見つけて」
これは明らかにおかしいと、彼は慌てて隅々まで探し回った。
「四阿の近くに小さな納屋があった。用具や肥料なんかを入れてて、あそこの庭は広いから、そういうものがいくつか点在してる。いつもは鍵なんか掛かっていない場所だ。なのにあの日、あの納屋には鍵が掛かっていた」
自力では無理だと判断して屋敷から大人を呼び、結局力業で扉を破ったらしい。
「納屋の合い鍵は作ってなかったんだ。必要になる場所じゃなかったから。ただ、簡単に南京錠を付けただけのものだったから、大人が体当たりすれば蝶番を壊せた。壊せるもので良かったよ」
そうしてそこで、手足どころか目元も口元を拘束されて転がされ、ぐったりしている莉緒が発見された。明らかにそこからは事件性が見て取れた。
納屋の鍵は庭師が与えられた管理室で保管しており、使用人ならそこにあることは大体知っている。管理室も庭師以外が入ろうと思えば入れる環境。
「……ゼーゲル家の使用人が、あの庭を取引の現場に使ってたんだ。取引のブツは、非合法な薬」
犯人はその日のうちに特定された。
庭の隅にこっそりいることが多かったエリオットが、時折持ち場でもないだろうにうろついている使用人がいたことを思い出したからだ。
それまでは特に気にしていなかったらしいが、事が起こった後でなら疑わしさは増す。
問い詰められ、男は白状した。
「ただしこれに関しては、その使用人個人の犯行だった。ゼーゲル家が関与していた訳じゃない。ただ場所を利用されただけで、これは本当のことだと信用してもらっていい。あの家は、そんな危ない橋を渡らなければならないほど困ってはいない」
マグカップを持つ手に、無意識に力が籠る。
もしあのまま見つけてもらえなかったら、と莉緒は想像する。
殺されていた? あるいは売り飛ばされていたとか?
顔を見てしまっていたから、無事に返してもらえることはなかっただろうと分かる。そう考えたら、今更ながらに震えが走った。
「ただ、自分達が悪事に手を染めていた訳ではないとはいえ、醜聞は醜聞だよね。外に漏らしたくない。どこの世界も、足の引っ張り合いだ。相手が上手く転ぶことを願っている。そして、ゼーゲル家の場合、こけた際の損害が計り知れない」
体裁、保身、打算。
「伯母夫婦は、あの時居合わせた使用人達は、事態を隠蔽することにした。リオを言いくるめて、あるいは無理そうならリオの両親にお金を積んで。警察にも渡さず、その場で起きたことを全て揉み消そうとしたんだ」
けれど、そうはならなかった。莉緒には丸め込まれた記憶はないし、両親も真実を知らない。彼らがお金で莉緒の身に起きたことを黙って受け入れたりしていないことは、誰に言われずとも確信できていた。
「そして実に都合のいいことが起きた。目を覚ましたリオの記憶が、ひどくこんがらがっていた」
エリオットの声は、どんどんと硬さを増していた。
極度の緊張と罪悪感。一番の当事者である莉緒より、彼の方がよほど追い詰められた顔をしている。
「リオは目を覚ましてから、数回パニックを起こしたって聞いてる。それを繰り返すうちに、記憶が改変されていったと。自分の身に起きた怖いことを、忘れようと必死に心が防御反応を取ったんだと思う」
もうそこは、莉緒の記憶にはない部分だ。聞かされても、記憶が何も刺激されない。
本当にすっかり忘れているのだろう。
「何が起こったのか分からなくなってきた君に、周りの大人は言い聞かせた。熱中症になって、お庭で倒れていたのよ。あなたを見つけられて良かった、大事に至らなくて良かった、今日はしっかり水分を摂って休みましょう、もうそれで大丈夫よと」
最低な行為だ、とエリオットが声を絞り出す。
そうだな、と莉緒も思った。最低だと思う。
「……リオに、謝りたくて」
酷い目に遭った子どもを、記憶を改変するほどショックを受けた子どもを全くケアすることなく、自分達の都合で言いくるめてなかったことにして。
本当に最低な行いだと、そう思う。
「申し訳なくて堪らなくて、リオの中でなかったことになっているのだとしても、ただ謝りたかった。自己満足だと分かっていたけど、それでも」
頭を抱え、長く長くエリオットが溜息を吐く。しばらく、リビングには静寂だけがあった。
莉緒は何も言わなかったし、彼は口を開くだけの勇気が湧くのを待っているようだった。
「……でも、こっそり部屋を訪ねた僕を見ても、君は不思議そうな顔をするだけだった。呼びかけても反応がぎこちない」
どんな思いをしただろうと、莉緒はぼんやりと考える。
「たまたまそれをレオンが部屋の外から見てたんだよ。後から、事態を察したレオンが君に質問を重ねた。その昔、リオがまだこちらに住んでいた頃、夏の間にできた思い出を一つ一つ並べて、そしてそこから“エリオット”という存在そのものが消えていることを確信した」
自分のことをすっかり忘れられるというのは、どれほどの衝撃だっただろうと。
謝りたくても、謝れない。そもそも謝ることに何の価値もないことを、突き付けられて。
「怖い思い出だったんだ。約束ごとリオは忘れようとして、きっとそれでは足りなかった。だから、約束をした相手そのもの、原因を作った人間ごと、記憶を消した」
僕とレオンの見目が似通っていたのも不幸中の幸いだったと思う、と彼は言った。
記憶を無理なく統合するのに都合が良かっただろうと。
「それが、リオが自分を守るためには必要なことだったんだ」
エリオットの言う通りだろう。
必要もないのに、直前に起こった出来事や人丸々一人分の存在をすっかり消すなど、普通に暮らしていてはあり得ないことだ。
十二歳の莉緒は、そうやって自分で自分の身を守った。
では、彼は?
彼もまだ、十代の少年だった。子どもだった。
「この夏、黒髪の女の子とすれ違った時、まさかと思った。もう随分月日が流れたし、見目なんかきっと変わっていておかしくない。でも、リオだって、面影があるってそう思って」
端正な顔が歪んでいる。
「声を掛けるべきじゃなかった。そんなことできる立場にない。でも、リオは何だかとても困っているようで。すごくすごく途方に暮れているように見えて」
まるで罪を告白しているようだと思った。
非合法なことをしていたのも、莉緒に危害を加えたのも、事件を隠蔽したのも別に彼自身ではないのに。
「声を掛けるのが余計な刺激になる可能性もあった。それでも我慢しなかったのは、本当に一重に自分のエゴだと分かってる。でも、そんな僕にリオは“レオン”って呼びかけた」
「――――」
そう、彼に向って莉緒は“レオン”という記号を当てはめた。それしか合致する情報を持っていなかったから。
「あぁ、本当に自分の存在は上手く消えてるんだなぁと思った。でも、レオンのことは覚えてる。あの夏が全部君にとって悪い記憶だった訳じゃない。話を聞いたら、すごく困ってるみたいだし、ちょっとだけ助けになるくらいならって」
そうしてずるずると関係は続き、莉緒は差し伸べられた手に甘えた。
「レオンでいれば、リオと会話ができる。一緒にいられる。それに、気付いてしまったんだ。“エリオット”を覚えていなくても、その全てが消えた訳じゃないって。だって、リオは僕が絵を描くことを覚えてた」
それは、莉緒の中に“エリオット”が残っている他でもない証拠。
「嬉しくなって舞い上がって、絶対に超えちゃいけなかったのに、大前提として嘘を吐いてるのに、なのにあの日、僕はリオに手を出した」
ごめん、と頭を下げられる。
手の中のマグカップはいつの間にかぼんやりとした温度になってきていて、莉緒はそれをテーブルの上に戻した。
「“レオン”のままでいられる訳がない。どこかで本当のことを言わなくちゃならない。言うなら、早い方がいい。何度か言おうとはしたけど」
懐かしいね、楽しかったねと笑う莉緒は、レオンとエリオット両方の思い出を足した上でそう言っていた。
向けられる行為や安心感は、純粋にエリオットだけに向けられたものではない。
疲れ果てて心を休めにここまで来た莉緒に、更に騙されていたことと辛い過去を伝えるのにも躊躇いがあった。
「自分が蒔いた種なんだけどね。だけどリオが暗くて狭いところが怖いんだって話を聞いて、その原因に思い当たった。あの納屋で監禁されていた経験が、厳然と心に暗い影を落としてる」
「あ……」
何もかもを忘れているように見えて、それでも莉緒の中から起きたことが本当に消えた訳ではない。
今までその理由に自覚的ではなかったけれど、今なら莉緒自身にも自分が狭くて暗いところが苦手になってその原因が分かる。あれは、心の奥底に刻まれてしまっている。
「言おうとして、その度に怖気づいた。そうして沢山誤魔化しを重ねた。嘘を吐いた。庭の件もそうだよ。手入れしてないから見せられないなんて嘘だ。本当は、あの庭の奥、少しあの別邸に似せて作ってあるんだ。だから、見せたらリオが気付くかも、思い出すかもって思って遠ざけた。一人で外出してほしくなかったのも、危ないって心配だったのも本当だけど、もしあの別邸や何か他に記憶に触れるような場所にリオが近付いたらって、それが不安だった。欺瞞だらけだった。その上、仕事が始まるからと理由をつけたけど、あのままリオに湖水地方にいてほしくなくて。無理矢理ロンドンに連れて来て」
次から次へと吐き出される言葉。
「……リオはやっぱり全然無事なんかじゃない。あの事で沢山傷を受けた。自分を歪めた。レオンに会っても、エリオットのことは思い出さない。それが全てを物語っている。あの日、自分のせいで、あんなに酷い目に」
「待って」
聞いていられなくなって遮る。
「なんで」
贖罪の言葉を聞く度に、莉緒の中で違和感が大きくなっていっていた。
「なんでさっきからずっと、自分が悪かったってそういう話になるの?」
「だってそうだよね? 待ち合わせに、遅れなければ良かった。ちゃんと時間通りに着いていればリオは危ない目に遭わなかった。そもそもあんな人が滅多に来ないような奥に、こっそり誰にも告げずにリオを連れて行こうとしたことがそもそもの間違いだった。おまけに、事件そのものをなかったことにするのをただ黙って見てるだけで、それを正そうともしなかった」
確かに、エリオットが時間通りに来ていれば危ない目には遭わなかったかもしれない。
でも、二人揃っていたとしても現場を目撃してしまい、危害を加えられていた可能性はあるではないか。
「僕がちゃんとしてれば、あんなことにはならなかった」
そこが、諸悪の根源ではないはずなのに。
「それは……何かおかしいよ」
話を聞いていて、確信できたことがある。
思い出した記憶は恐怖に満ちていた。
頭の中にリフレインする光景には気分が悪くなる。
事態を隠蔽した大人達に怒りも覚える。ゼーゲル家の人間には不信感しかない。
それは事実。
けれど、過去を告白する彼は決して莉緒を傷つけたかった訳ではない。
「違法なことをしてた犯人が、一番悪いよね? 私のこと監禁した犯人が一番悪いよ。それを隠蔽した人達だって酷い。簡単に許せない。でも」
傷付いた顔を見ると、莉緒の方も堪らなくなる。
「エリオットが加害者なんじゃないでしょう?」
きっと他の人間は何とも思っていない。
やらかした使用人も、事態を隠蔽した大人達も、きっと莉緒に申し訳ないなんて思っていない。それどころか莉緒の存在自体もう忘れてしまっているかもしれない。
なのに、実際の加害者でも何でもない彼がずっと重荷を抱え、莉緒に向けて謝罪するのだ。
「私には、エリオットだって被害者に思えるよ。だって隠蔽しようだなんて、大人達が勝手に決めたことじゃない。それに当時子どもが口を挟めたとは思えない。エリオットの立場を思えばなおさら」
彼はその生まれ故に微妙な立場で、周りに対して強く出られなかったはずだ。
「どうにかしたくても、どうにもできなくて。起きてしまったことは取り返しがつかなくて。そういう状況に置かれてた。大人達のエゴの前に押し殺されて、それで今も苦しんでる」
彼にそんな風に苦しんでもらっても、莉緒は欠片も嬉しくないと言うのに。
「私、怒ってないよ。名前を騙られたことに関しても、怒ってない。仕方がないことだったと思う。私が同じ状況でも、色んなことが怖くて、どうにか相手を追い詰めないでいたくて、きっと同じようになりすましたと思う」
「リオ……」
偽っていたのは、名前だけ。
「エリオットが私のこと、その」
そういう風に信じたい。信じている。
「……本当に好きだって、それが嘘じゃないって言うなら、名前のことに関しては本当にもう何もないの」
「好きだよ! そこに絶対嘘はない!」
恐る恐る言うと、食い気味にエリオットは言い切った。