シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~

07.ここに来た、その理由



「あのさ、リオ」
「すみません……」
 シッティングルームのソファの上で正座をしながら莉緒は項垂れる。
「責めてる訳じゃなくて、心配してるんだ」
「ご心配おかけして誠に申し訳なく……」
「リオ、すぐに謝るよね」
 リオがって言うより日本人がそんな感じなの? と問われたが、莉緒には何とも答えられなかった。


 ちらりと視線を滑らせると、アンティーク調の置時計が示す時刻は夜中の二時。

「はい、これ飲んで」

 差し出されたマグカップはまろやかな白色の液体で満ち、湯気をくゆらせていた。
 ホットミルクだ。


 こんな時間に起きている二人だが、何も夜更かしをしていた訳ではない。十一時頃にはおやすみの挨拶を交わして、それぞれの部屋へ引っ込んでいた。


「これで三回目だよね」
 莉緒が彼の別荘に転がり込んでから既に五日が経過していた。
 三回目というのは、夜中に莉緒がレオンに迷惑をかけた回数のことである。
 つまり。
「これだけ続くとちょっと不安だよ。たまたまと言うよりこれ、こっちに来る前からそうだったんじゃないの? これだけ魘されてるなんて、どう考えても心因性の何かだよ」


 莉緒が夜な夜な魘され、その度に声を聞きつけたレオンが起こしに来ているのである。


 美味しいごはん、綺麗な空気、適度な外出。
 実に健康的な日々を送っているが、それと夜中の魘されはあまり関係がない。
「あんまりあれこれ聞くのはどうかと思ってたけど……」
 隣にレオンが腰掛けて、それに合わせて莉緒の身体が振動で揺れる。
「リオ、今回長期の滞在のつもりで来たって言ってたよね。早く切り上げるかもとも言ってたけど、ビザが切れるまでなら最長六ヶ月?」
「う、うん、観光ビザで来てるから……」
「もちろんどれだけいようとそれはリオの自由だけど、大人になってからそれだけの時間を自由に使うのってなかなか難しいよね」
 仕事があったり家庭があったりすると、色々限られてくるものである。
 けれど莉緒には全くそういった様子がない。レオンがあれこれ考えを巡らせるのも当然のことだ。
「リオさ、言葉になってない時も多いけど、魘されてる時“スミマセン”って何度か言ってたよ」
「!」
「それって謝罪の言葉だよね?」
 レオンはほとんど日本語が分からない。有名な単語をいくつか知っている程度だ。有難うくらいなら知っているかもしれないが、済みませんはどうだろうか。
 もしかしたら、わざわざ調べたのかもしれない。


「何がリオを謝罪させてるの?」
「……えっと」


 レオンの声音は柔らかい。詰問するようなところは一つもない。
 それに、今の訊かれ方に何だか少し救われたような気になった。

 何を謝罪してるの? 何を悪いと思ってるの?

 そうではない。

 何がリオを謝罪させてるの?

 莉緒がまるで何かに脅かされているのだと、謝罪の根本に莉緒の過失があるのではないだろうと言うように。


「あのね」
 ひと口、淹れてもらったホットミルクを含む。甘く優しい口当たり。
 喉を潤せば、するりと言葉は出てきたように思う。
「騒がしくて申し訳ないんだけど、魘されてること自体はあんまり自覚がないの。たまにもしかして今声出してた? ってことがある程度。夢も見てるような見てないような、あんまりはっきりしない感じ」
「うん」
「でも多分、ううん、確実にって言うべきかな。原因は元職場なんだよね」


 新卒で入社した会社がブラックだったこと。
 終わらない仕事、積み上がるサービス残業、ギリギリと言うのもどうかと思う予算と人員。
 入った当初はそれほどでもなかったけれど、人員が足りてないからと入社後半年で回された部署が、もう社会の闇を煮詰めたみたいな部署だった。
 おかしいと思った時にはもうカツカツで回す仕事でがんじがらめになっていて、抜け出し方が分からなくなっていた。


「誰かに抜けられるともう首が締まる。それが嫌と言うほど分かってて、辞めるに辞められなかった。とにかく毎日疲れてて、その日一日のノルマをこなすだけで精一杯で」


 だって自分はまだ新入社員だ。こんなすぐに会社を辞めたりして、次は見つかるものだろうか。いや、その前に次を探す余裕がない。
 それでなくとも自分はまだ仕事ができないのに、先輩にだって迷惑をかけてるのに、私よりもっと大変な量の仕事を抱えている人はいるのに。
 今はまだやめられない。あと少しだけ。取り敢えず最初の三年くらい耐えて。


 毎度毎度繰り返されるデスマーチに、思考の方もおかしくなっていっていたと思う。


「私がどれだけ身を粉にして働いたところで、会社が何をしてくれる訳でもないのにね。残業代だって本当に最低の分だけで、まともに払ってくれてないところだよ、私が健康を損なったら捨てられるだけって分かってたのに」


 切羽詰まった職場の空気に飲まれていた。
 誰の裏切りも許さない空気、飛ぶ叱責、見張られている感覚。誰かが逃げたとなれば、残されたものは無言で互いに圧をかける。俺達は仲間だろというのは、裏切ったら許さないという意味であって。


「それでね、丁度三年が過ぎたところで、ある日もう駄目になっちゃって」


 身体がもう動かなかった。出勤どころの話ではない。
 莉緒はそこでようやく放棄する、していいんだということを覚え。
 着信音が止まないスマホの電源を切ったら、連絡が全くつかないことを心配した母親が一人暮らしの部屋を訪ねて来て、莉緒の現状は両親も知るところになった。


「それで会社は辞めて、しばらく休息を取った方がいいって実家に戻ってのんびり過ごしてたの。これでも大分良くなってきたんだよ?」


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