シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~
08.親切のその理由を
「……本当に?」
莉緒の話を聞いてる間にどんどん眉間に深いシワを刻んでいたレオンが、疑わしいと言わんばかりにそう問いかけて来る。
「ごはんもちゃんと食べれるし、胃腸の調子も悪くないし、耳鳴りもしない。顔を上げて、前を見て道を歩けてる」
妙な動悸も大分回数が減ったし、悔しさや不安、焦りはあるけれど、今は周りを見る余裕がある。追い立てられていたあの頃とは違う。
そう高い給料ではなかったけれど使う暇が全くなかったから、多少の蓄えはある。だから無職になった今でも何とかなっている。
「イギリスまで旅行に来れてるし、景色を見て綺麗だなって思えてる。あそこに行ってみたいなって、何かをしたい欲求もちゃんとある」
「それは最低限の状態だよ」
「でも恵まれてるし、ある程度余裕がある証拠だよ」
将来に不安はあるものの、莉緒は一時に比べ随分落ち着いている。
けれど快方に向かっているのだと知ってほしくて並べ立てたあれこれは、元の状態の酷さをレオンに教えただけだったらしい。
「でもまだ魘されてる。それがたまたま僕の目に入ってるってだけで、きっと他にも色々あるんだろう」
「やっぱりもう身体に色々染み付いてるから、そういうのってなかなか抜けないんだと思う。でももう過去のことだから、時間をかければそのうちこの身体から抜けていくよ」
「そうだといいけど」
話し切って、莉緒はホッと一息吐いた。ちびちび飲んでいたマグカップの中身は半分以上減っていた。
「……なんとなくだけど」
事実をありのまま話したのだが、失敗だったかなと少し後悔する。
日本の闇の部分をお見せしてしまった。過労死、が海外でも通じるようになってしまった昨今である。
日本に対して悪いイメージを植え付けはしなかっただろうか。たまたま莉緒の引きが悪かっただけで、ホワイトな企業もちゃんとあると説明しておくべきか。
「リオは何でも自分でどうにかしようとするところがあるんじゃない? それって長所だと思うけど、適切なタイミングを一つ逃すと短所にもなるよね」
そんなことをぐるぐる悩んでいたら、ふとレオンがそう言った。
確かにその通りなのでぐうの音も出ない。今回、莉緒は確実にタイミングを見誤り自身を損なったし、大切な人にも沢山心配をかけた。
「渦中にいるとどうしようもなくなるっていうのも分かるし、過ぎたことに対して後からならいくらでも言える、そして言っても仕方ないってのも分かってる。でも、もっと早くリオがその劣悪な環境から抜け出せてたらって思うよ」
こちらを見下ろす顔は本当に心の底から心配しています、というのが伝わって来る表情を浮かべていて。
そうやって、心を分けてもらえるだけで莉緒はもう十分だなと思う。
曖昧で軽く軽くなりかけていた自分の存在に、本当はちゃんと重量があるんだよと教えてもらえる気がして。
「リオ、少し痩せすぎじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ」
レオンの手が莉緒の頬に触れた。頬のラインをなぞるように指先が伝う。
莉緒の鼓動はドッと早くなったけれど、それを必死に押し隠した。
これは違う、痩せてるって、ちょっと頬コケてない? って確認されてるだけ。
「言っても仕方のないことを、言いたくなるな」
「例えば?」
理由をつけて心を落ち着かせ、平静な彼に同じだけ平静な態度を心がけて返す。
「もし僕が無茶苦茶な会社勤めをしてるリオの傍にいたら。疲れ果てたリオとイギリスで再会するんじゃなくて、その手前で、日本で再会できてたら」
あり得ない“もしも”。
でも、想像するのは自由だ。せっかくなので莉緒も考えてみる。
「そうしたらどうなってたかなぁ。私、余裕がなさすぎて、多分すれ違っても声をかけられてもレオンだって気付かなかったと思うよ」
「僕が気付くし、ちゃんと思い出すから大丈夫だよ」
自信満々に言い切ってくれるので、頭の中で莉緒とレオンは日本のごみごみした街中で無事再会した。
「そうしたらまず食事だよね、胃に優しいものをご馳走して。それから湯船にたっぷりお湯を張って、そこにリオを放り込む」
「ふふ」
「自分でするのは面倒だろから、髪は僕が乾かしてあげる」
「いいね、楽ちん」
「髪が乾いたらふかふかのベッドへ連行する。お日様が昇るまで脱走禁止」
美味しい食事、湯で身体を温めて、柔らかなベッドで上質な睡眠を。
きっとひと息つけて、翌朝の莉緒には少しだけ余裕が生まれる。その余裕で自分のために正しい行動を取れるだろう。
けれど、レオンはまだ続けた。
「辞めるって言い出し辛いなら、代わりにこっちが全部やる。会社を辞めるのってそう難しいことじゃないよ。特にそんな違法な労働をさせてるところなんて、こっちが弁護士の存在やら何やらチラつかせれば面白いくらい慌てるし。未払いの残業代もきっちり回収しようね」
「めちゃくちゃ頼もしい」
「そうでしょ、頼りになるでしょ」
何もかもお任せコースだ。頼もしいけれど、そこまでお願いしては駄目人間になりそうである。
「頼ってくれていいよ。ここにいる間くらい存分に頼ってよ」
頬に触れていた手にくいっと力が込められる。
レオンの方へと押されて、莉緒の身体は彼に寄りかかる形になる。
「休息を取るのに、ここは最高の場所だ。自然が豊かで、長閑で美しい。けれど孤独というほど閑散とはしていない。適度に人と触れ合える。自分のペースでゆっくり休むのに丁度良い」
「うん」
まだそれほど観光らしいことはしていなかったが、近所を少し歩くだけでも莉緒の心は休まる。目に映る小さなもの一つ一つが穏やかで美しいから。
「心や身体が追いつかないなら、この家でのんびりするといい。でも気が向いたら出掛ける先はそれなりにあるよ。ドライブをしてもいいし、フェリーで湖をクルーズするのも観光客には人気だね」
寄りかかっている腕から伝わる熱が心地良かった。ドキドキよりも、今は安心感の方が勝っている。人に心配してもらえるのは贅沢なことだなぁと思う。
「甘いものも沢山あるよ。ジンジャーブレッドの美味しいお店があるから、あそこのは一度食べてもらいたいかも」
それに、作ってもらったホットミルクもお腹の内側から莉緒を温めていた。
内も外も優しく満たされる感覚に、そっと意識が揺れる。再びの眠気が莉緒に迫って来ていた。
「ねぇ、レオン」
「うん?」
でもまだ寝たくない。訊きたいことがある。
「どうして、そんなに良くしてくれるの」
口にした時にはもう瞼が半分下がっていた。問われたレオンは数瞬考えた後口を開いたが、
「それは君が――――」
訊き終える前に、莉緒の意識は落ちていた。