緋の鏡 ~その血は呪いを呼ぶ~
菜緒子の家に行くと、疲れきったような表情の母親が出てきた。紗子のことを説明する。最初は胡散臭そうに彼女の顔を見たが、必死で懇願する克弥に折れ、なにも言わずに中へ通した。二階にあがって菜緒子の部屋を示す。
「僕はここにいます」
状況が悪くなってはいけないと、克弥は悔しそうにそう言った。
「ドアは開けておくから覗いていたらいいわ」
紗子は母親と一緒に部屋の中に入った。部屋は暗かった。カーテンが閉じられ、電気もついていない。夕方とはいえ、まだ外は明るい。そんな状況下、この部屋は一種異様な雰囲気に包まれていた。
克弥は菜緒子に気づかれないように中を覗いた。そしてギョッとした。菜緒子の目はギラギラと光り、髪は乱れて汚らしい。別人のような姿に絶句した。そんな中、紗子の澄んだ声が響いた。
『高天原に神留まり坐す 神漏岐神漏美之命以ちて 皇御祖神伊邪那岐之命 筑紫日向の橘の 小門之阿波岐原に身滌祓給ふ時に 生坐る祓戸之大神等 諸々禍事罪穢を祓へ給ひ 清め給へと白す事の由を 天津神地津神 八百万之神等共に 天の渕駒の耳振り立て所聞食と畏み畏みも白す』
まるで声と言葉が周囲を浄化するが如く、なんとも言えない重々しい雰囲気を消し去っていく気がする。克弥と菜緒子の母親が目を瞠る中、当の菜緒子はふとなにかを思い出したような表情をし、顔を紗子に向けた。
「吉岡菜緒子さん。私の声が聞こえますか?」
菜緒子は目を大きく見開き、コクリと頷いた。
「夢に引きずり込まれたようですね。あなたは嫉妬を買ったのです」
「……嫉妬?」
「えぇ。大切な人に想われ、同じように想い、互いに想いを確認しあった姿に嫉妬されたのです」
「…………」
「大丈夫。私がその夢から救って差しあげます。目を閉じて」
それでも菜緒子は信じられないと言いたげに、紗子の顔を凝視している。
「では、これを持ってくださる? 気持ちが落ち着くので」
鞄から取り出されたのは、紙垂のついた榊だった。
「これ」
紗子が無言で頷くと、菜緒子は安心したのか、榊を両手で握り、胸に押しつけた。彼女の中で安堵が広がっているのがよくわかった。
「目を閉じて」
静かに従う。紗子は鞄から直径五センチぐらいの円鏡のついたペンダントを取り出した。菜緒子の首にかけ、自らは笏を手にし、その笏の先を菜緒子の片肩に置く。再び玲瓏な口調で言葉を発した。
『高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて 我皇御孫命は豊葦原瑞穂国を安国と平けく知食せと事依さし奉りき』
克弥はそれが神道の神主が唱えている言葉だと悟った。神社で厄除払いを受けた時も、宮司が同じような言葉を唱えていたように思う。なにを言っているのかさっぱりわからないし、言葉を聞き取ることもできなかったが、それだけは理解できた。
『天津罪国津罪許許太久の罪出む 此く出ば天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて天津祝詞の太祝詞事を宣れ』
克弥はいつの間にか菜緒子の部屋に入り、目を閉じて紗子の言葉に聞き入っていた。澄んだ玲瓏な声が心に沁み入り、ジンと響く。
『彼方の繁木が本を焼鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ』
まるで言葉が千々に飛び、汚れた気配を清めていくようだ。次第に落ち着きを取り戻していく菜緒子の様子が証明していた。
『此く気吹放ちてば 根国底之国に坐す速佐須良比売を云う神持佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す』
紗子の口が閉じられ、菜緒子の首から円鏡のついたネックレスを取る。一度、円鏡を見たが、すぐに鞄に戻した。次に小ぶりの大麻を取り出し、菜緒子の頭上で捧げるように構えると、それから数度、左右に振った。
『とほかみえみため祓へ給へ清め給へ とほかみえみため祓へ給へ清め給へ とほかみえみため祓へ給へ清め給へ』
ようやくすべてを終えたのか、紗子は道具を片づけ、優しい口調で菜緒子に話しかけた。
「もう夢を見ることはないわ。思い出しても怖くないから質問に答えて頂戴。あなたの見た夢は呪いの記憶なのだけど、誰が見えた?」
「……女の人。着物姿の」
「それだけ?」
「右手の人差し指の先がなかった」
「他には?」
「手鏡に、その指を擦りつけて、呪ってた」
「それだけ? いつも同じ?」
菜緒子は真っ直ぐ紗子を見た。
「血でずぶ濡れだった姿を見た。後、血が床に広がっていって……」
紗子は頷いた。
「そう、わかったわ。吉岡さん、あなたは清く祓われた。これから呪いの本体を清めてくるから安心してゆっくり休んで頂戴」
紗子の手が菜緒子の頬に優しく触れると、菜緒子はほんのわずか微笑み、間もなく気持ちよさそうに眠ってしまった。
「あの」
母親が心配そうに割って入ってきた。
「もう心配はいりません。疲労が著しいので、しばらくの間は安静に」
「……はい」
「では、失礼します」
紗子は身を翻した。そして部屋を出ると克弥を促し、この家を後にした。母親は慌てて追いかけて玄関先で礼を言い、頭をさげたのだった。
「僕はここにいます」
状況が悪くなってはいけないと、克弥は悔しそうにそう言った。
「ドアは開けておくから覗いていたらいいわ」
紗子は母親と一緒に部屋の中に入った。部屋は暗かった。カーテンが閉じられ、電気もついていない。夕方とはいえ、まだ外は明るい。そんな状況下、この部屋は一種異様な雰囲気に包まれていた。
克弥は菜緒子に気づかれないように中を覗いた。そしてギョッとした。菜緒子の目はギラギラと光り、髪は乱れて汚らしい。別人のような姿に絶句した。そんな中、紗子の澄んだ声が響いた。
『高天原に神留まり坐す 神漏岐神漏美之命以ちて 皇御祖神伊邪那岐之命 筑紫日向の橘の 小門之阿波岐原に身滌祓給ふ時に 生坐る祓戸之大神等 諸々禍事罪穢を祓へ給ひ 清め給へと白す事の由を 天津神地津神 八百万之神等共に 天の渕駒の耳振り立て所聞食と畏み畏みも白す』
まるで声と言葉が周囲を浄化するが如く、なんとも言えない重々しい雰囲気を消し去っていく気がする。克弥と菜緒子の母親が目を瞠る中、当の菜緒子はふとなにかを思い出したような表情をし、顔を紗子に向けた。
「吉岡菜緒子さん。私の声が聞こえますか?」
菜緒子は目を大きく見開き、コクリと頷いた。
「夢に引きずり込まれたようですね。あなたは嫉妬を買ったのです」
「……嫉妬?」
「えぇ。大切な人に想われ、同じように想い、互いに想いを確認しあった姿に嫉妬されたのです」
「…………」
「大丈夫。私がその夢から救って差しあげます。目を閉じて」
それでも菜緒子は信じられないと言いたげに、紗子の顔を凝視している。
「では、これを持ってくださる? 気持ちが落ち着くので」
鞄から取り出されたのは、紙垂のついた榊だった。
「これ」
紗子が無言で頷くと、菜緒子は安心したのか、榊を両手で握り、胸に押しつけた。彼女の中で安堵が広がっているのがよくわかった。
「目を閉じて」
静かに従う。紗子は鞄から直径五センチぐらいの円鏡のついたペンダントを取り出した。菜緒子の首にかけ、自らは笏を手にし、その笏の先を菜緒子の片肩に置く。再び玲瓏な口調で言葉を発した。
『高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて 我皇御孫命は豊葦原瑞穂国を安国と平けく知食せと事依さし奉りき』
克弥はそれが神道の神主が唱えている言葉だと悟った。神社で厄除払いを受けた時も、宮司が同じような言葉を唱えていたように思う。なにを言っているのかさっぱりわからないし、言葉を聞き取ることもできなかったが、それだけは理解できた。
『天津罪国津罪許許太久の罪出む 此く出ば天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて天津祝詞の太祝詞事を宣れ』
克弥はいつの間にか菜緒子の部屋に入り、目を閉じて紗子の言葉に聞き入っていた。澄んだ玲瓏な声が心に沁み入り、ジンと響く。
『彼方の繁木が本を焼鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ』
まるで言葉が千々に飛び、汚れた気配を清めていくようだ。次第に落ち着きを取り戻していく菜緒子の様子が証明していた。
『此く気吹放ちてば 根国底之国に坐す速佐須良比売を云う神持佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す』
紗子の口が閉じられ、菜緒子の首から円鏡のついたネックレスを取る。一度、円鏡を見たが、すぐに鞄に戻した。次に小ぶりの大麻を取り出し、菜緒子の頭上で捧げるように構えると、それから数度、左右に振った。
『とほかみえみため祓へ給へ清め給へ とほかみえみため祓へ給へ清め給へ とほかみえみため祓へ給へ清め給へ』
ようやくすべてを終えたのか、紗子は道具を片づけ、優しい口調で菜緒子に話しかけた。
「もう夢を見ることはないわ。思い出しても怖くないから質問に答えて頂戴。あなたの見た夢は呪いの記憶なのだけど、誰が見えた?」
「……女の人。着物姿の」
「それだけ?」
「右手の人差し指の先がなかった」
「他には?」
「手鏡に、その指を擦りつけて、呪ってた」
「それだけ? いつも同じ?」
菜緒子は真っ直ぐ紗子を見た。
「血でずぶ濡れだった姿を見た。後、血が床に広がっていって……」
紗子は頷いた。
「そう、わかったわ。吉岡さん、あなたは清く祓われた。これから呪いの本体を清めてくるから安心してゆっくり休んで頂戴」
紗子の手が菜緒子の頬に優しく触れると、菜緒子はほんのわずか微笑み、間もなく気持ちよさそうに眠ってしまった。
「あの」
母親が心配そうに割って入ってきた。
「もう心配はいりません。疲労が著しいので、しばらくの間は安静に」
「……はい」
「では、失礼します」
紗子は身を翻した。そして部屋を出ると克弥を促し、この家を後にした。母親は慌てて追いかけて玄関先で礼を言い、頭をさげたのだった。