緋の鏡 ~その血は呪いを呼ぶ~
やがて紗子が戻ってきた。克弥は目を瞠った。
銀色の地に細かな刺繍が施された羽織袴の上に、千早を身につけた姿が途方もなく美しかった。さらに頭にはキラキラと簪風の冠が揺れている。
目を瞠る克弥に向け、紗子は微笑んだ。
「神職の正装は衣冠束帯なんだけど、あれって私には似合わない気がするのよね。巫女姿でも効力は一緒だから、私はこっちを選ぶの」
「似合ってますよ。すごく綺麗……」
「そう? ありがとう。では、始めましょうか」
その言葉に、克弥は顔を引きしめた。
御霊舎の前で大麻を大きく左右に何度も振り、邪気を祓う。
紙垂が揺れるたびにシャラシャラと音がする。
次に紙垂のついた大きな榊を取り、聖水をわずかにつけて御霊舎と克弥に払うように振った。
今度は姿勢よく立ち、切れのある動作で二礼すると、大きく二拍手行い、さらに一度深く頭を垂れる。
御霊舎の前に座り、笏を胸の前に据え、再び玲瓏な声で祝詞をあげた。
克弥はその言葉を聞いていた。
何度聞いてもなにを言っているのかさっぱりわからないが、癒やされるような気がするのは変わらない。沁み入るように心に広がっていく。
脈々と受け継がれてきた『教《きょう》』の力がどんなものか、克弥のような信心のない者でも理解できる気がした。
祝詞の一つが詠み終わると、大麻が克弥の頭上で振舞われる。
再び御霊舎に向けて二礼二拍一礼を行う。
座るとまた玲瓏な声で祝詞があげられた。
知識のない克弥はすべて祝詞だと思っているが、実は祝詞には『祝う詞』と『祓う詞』がある。紗子の口から流れるそれらが穢れを取り祓っていた。
しばらくすると、祭壇に置かれた手鏡がカタカタと小さく動き出した。
克弥は一瞬寒気を覚えたが、紗子の様子に変わりがないので静かに深呼吸をして見守った。
紙垂のついた榊と、護符の紙。それらと共に白い布で包まれて縛られた手鏡は足掻いているが如くカタカタと震えている。その動きが少しずつ大きくなる。
紗子の声に力が籠もると、ますますガタガタと音を立てて震えた。克弥は恐怖に目が離せなかった。
次第に激しくなる動きに不安はピークに達しようとしていた。それを我慢するために、爪が食い込むぐらい強く握り拳を作った。
ガタンと一段大きな音がした。同時に手鏡が凄まじい勢いで跳ねあがった。
克弥の口から「ひっ!」と短い悲鳴がもれたが、紗子は至って冷静で、まったく動じない。淡々と祝詞をあげている。
手鏡は辺り構わず跳ね、飛び回り、至るところでぶつかっている。派手な音が鈍く響き続けたが、やがて失速してポタリと落ちた。
「ようやく観念したようね」
小さく呟かれた言葉に頭を抱えて蹲っていた克弥が顔をあげた。
「もう大丈夫よ」
「……すみません」
「どうして謝るの?」
「だって……なんか、すごく、情けない」
「あら、この部屋から逃げ出さなかっただけ偉いわよ。さてと、さっさと仕上げて次に向かいましょうか?」
「次?」
紗子は手鏡を拾うと祭壇に置き、再び祝詞をあげ始めた。
やがてようやく儀式のすべてを終えると、克弥に深く一礼して隣の部屋に消えた。克弥は彼女の背を見送り、なんとも言えない強い虚脱感を覚えた。
間もなく、普通の服に着替えた紗子が戻ってきた。
「あの、仕上げて次にって、どういうことですか?」
紗子は祭壇から手鏡を取りあげ、細い縄を解いて手鏡を曝した。
「うわぁぁぁぁっ!」
克弥は思わず情けなくも絶叫した。
手鏡は別のものと見紛うほどに汚れ、鏡の面はどす黒く染まっていたのだ。
その色は明らかに血だった。血が鏡の面に厚く塗りつけられているのだと一瞬で理解した。
「な! なんで!」
「本来の姿に戻っただけよ。情念がこの手鏡に力を与えていたの。だから美しい姿だったのだけど、その情念を祓ったから元の姿に戻ったのよ。情念の正体が女の血であることが明らかになったわ。ただ、血液の色素、ヘモグロビンは時間とともに色が抜けていくんだけど、これはそうはならなかったみたいね」
「――――」
「どうして夢だったのか、その説明もいるわね。眠っている時はトランス状態に陥っているから、普段感じることのないモノも視えるのよ。だから夢を見る以外の作用はなかったってわけ。後は人間側の問題で、性格や気質、その時の精神状態でかなり変わってくるわ。人間の気の有り様って、すべてに影響するのよ。向上も、堕落も、すべてね」
紗子は鞄に手鏡を入れ、手鏡と一緒に結んでいた細長い紙をふわりと宙に投げた。
『血の元を追いなさい』
紗子の口から言葉が漏れると、紙は宙を舞い、鳥に変わった。
鳥は天井辺りを旋回している。出口を探しているようだ。
「鏡が元に戻ったら、もういいんじゃ……」
「根本を祓わないと意味がないわ。それに鏡の持ち主はまだこの世で恨んでいるのよ」
「…………」
「悪霊は祓わないと周辺に悪影響を及ぼすからね。この護符に情念を移したから、居場所を突き止めるのはすぐよ」
「あの」
蒼い顔をする克弥に微笑みかける。
「当然、あなたも来るのよ、氷室君。なんたって見込まれた相手だもの。あなたが手を合わせることが一番効果的なのよ」
そう言ってもう一度微笑むと、部屋の扉を開け、鞄から占盤を取りだして歩きだしたのだった。
銀色の地に細かな刺繍が施された羽織袴の上に、千早を身につけた姿が途方もなく美しかった。さらに頭にはキラキラと簪風の冠が揺れている。
目を瞠る克弥に向け、紗子は微笑んだ。
「神職の正装は衣冠束帯なんだけど、あれって私には似合わない気がするのよね。巫女姿でも効力は一緒だから、私はこっちを選ぶの」
「似合ってますよ。すごく綺麗……」
「そう? ありがとう。では、始めましょうか」
その言葉に、克弥は顔を引きしめた。
御霊舎の前で大麻を大きく左右に何度も振り、邪気を祓う。
紙垂が揺れるたびにシャラシャラと音がする。
次に紙垂のついた大きな榊を取り、聖水をわずかにつけて御霊舎と克弥に払うように振った。
今度は姿勢よく立ち、切れのある動作で二礼すると、大きく二拍手行い、さらに一度深く頭を垂れる。
御霊舎の前に座り、笏を胸の前に据え、再び玲瓏な声で祝詞をあげた。
克弥はその言葉を聞いていた。
何度聞いてもなにを言っているのかさっぱりわからないが、癒やされるような気がするのは変わらない。沁み入るように心に広がっていく。
脈々と受け継がれてきた『教《きょう》』の力がどんなものか、克弥のような信心のない者でも理解できる気がした。
祝詞の一つが詠み終わると、大麻が克弥の頭上で振舞われる。
再び御霊舎に向けて二礼二拍一礼を行う。
座るとまた玲瓏な声で祝詞があげられた。
知識のない克弥はすべて祝詞だと思っているが、実は祝詞には『祝う詞』と『祓う詞』がある。紗子の口から流れるそれらが穢れを取り祓っていた。
しばらくすると、祭壇に置かれた手鏡がカタカタと小さく動き出した。
克弥は一瞬寒気を覚えたが、紗子の様子に変わりがないので静かに深呼吸をして見守った。
紙垂のついた榊と、護符の紙。それらと共に白い布で包まれて縛られた手鏡は足掻いているが如くカタカタと震えている。その動きが少しずつ大きくなる。
紗子の声に力が籠もると、ますますガタガタと音を立てて震えた。克弥は恐怖に目が離せなかった。
次第に激しくなる動きに不安はピークに達しようとしていた。それを我慢するために、爪が食い込むぐらい強く握り拳を作った。
ガタンと一段大きな音がした。同時に手鏡が凄まじい勢いで跳ねあがった。
克弥の口から「ひっ!」と短い悲鳴がもれたが、紗子は至って冷静で、まったく動じない。淡々と祝詞をあげている。
手鏡は辺り構わず跳ね、飛び回り、至るところでぶつかっている。派手な音が鈍く響き続けたが、やがて失速してポタリと落ちた。
「ようやく観念したようね」
小さく呟かれた言葉に頭を抱えて蹲っていた克弥が顔をあげた。
「もう大丈夫よ」
「……すみません」
「どうして謝るの?」
「だって……なんか、すごく、情けない」
「あら、この部屋から逃げ出さなかっただけ偉いわよ。さてと、さっさと仕上げて次に向かいましょうか?」
「次?」
紗子は手鏡を拾うと祭壇に置き、再び祝詞をあげ始めた。
やがてようやく儀式のすべてを終えると、克弥に深く一礼して隣の部屋に消えた。克弥は彼女の背を見送り、なんとも言えない強い虚脱感を覚えた。
間もなく、普通の服に着替えた紗子が戻ってきた。
「あの、仕上げて次にって、どういうことですか?」
紗子は祭壇から手鏡を取りあげ、細い縄を解いて手鏡を曝した。
「うわぁぁぁぁっ!」
克弥は思わず情けなくも絶叫した。
手鏡は別のものと見紛うほどに汚れ、鏡の面はどす黒く染まっていたのだ。
その色は明らかに血だった。血が鏡の面に厚く塗りつけられているのだと一瞬で理解した。
「な! なんで!」
「本来の姿に戻っただけよ。情念がこの手鏡に力を与えていたの。だから美しい姿だったのだけど、その情念を祓ったから元の姿に戻ったのよ。情念の正体が女の血であることが明らかになったわ。ただ、血液の色素、ヘモグロビンは時間とともに色が抜けていくんだけど、これはそうはならなかったみたいね」
「――――」
「どうして夢だったのか、その説明もいるわね。眠っている時はトランス状態に陥っているから、普段感じることのないモノも視えるのよ。だから夢を見る以外の作用はなかったってわけ。後は人間側の問題で、性格や気質、その時の精神状態でかなり変わってくるわ。人間の気の有り様って、すべてに影響するのよ。向上も、堕落も、すべてね」
紗子は鞄に手鏡を入れ、手鏡と一緒に結んでいた細長い紙をふわりと宙に投げた。
『血の元を追いなさい』
紗子の口から言葉が漏れると、紙は宙を舞い、鳥に変わった。
鳥は天井辺りを旋回している。出口を探しているようだ。
「鏡が元に戻ったら、もういいんじゃ……」
「根本を祓わないと意味がないわ。それに鏡の持ち主はまだこの世で恨んでいるのよ」
「…………」
「悪霊は祓わないと周辺に悪影響を及ぼすからね。この護符に情念を移したから、居場所を突き止めるのはすぐよ」
「あの」
蒼い顔をする克弥に微笑みかける。
「当然、あなたも来るのよ、氷室君。なんたって見込まれた相手だもの。あなたが手を合わせることが一番効果的なのよ」
そう言ってもう一度微笑むと、部屋の扉を開け、鞄から占盤を取りだして歩きだしたのだった。