緋の鏡 ~その血は呪いを呼ぶ~
 二人は再び駐車場に立っていた。

 真夏の暑さは夜でもアスファルトを乾かし、聖水の痕跡を完全に消していた。

 紗子は鞄から聖水と塩を取り出してその場に撒いた。同時に紙垂のついた榊も置く。

 克弥も手を合わせていた。一心に女の恨みが晴れるように祈った。

(なんの関係もない人を不幸にするのは悪いことだけど、気の毒であることは確かだ。ただ好きになっただけなのに、許されないばかりか、閉じ込められて殺されたというなら気の毒としか言いようがない。どうか成仏してくれ)

 紗子の呟くような声が途切れると、克弥は手を合わせたまま顔をあげた。先ほどと同じように、濡れた地面から赤黒い煙のようなものがゆらゆらと立ち込め始め、ゆっくりと人型を形成した。

『しつこいね』

「説得に来たのよ。恨みを捨てなさい。仏の慈愛に身を任せて成仏するか、神の導きに従って帰幽するか、あなたの信心に任せるわ」
『あたしは神も仏も信じちゃいないよ』
「わかってる。吉原の女というだけで、気の毒だと思うわ」

 女の目に動揺が浮かんだ。

『あたしの身元、調べたのかい?』
「ここで不幸が起こったのではないかと案じた住職がいること、あなたは気づいていないのかしら?」

 女は紗子を見つめつつ、押し黙った。

「この先の寺の元住職よ。突然行方不明になった女のことを親子で気にしているのよ。ここで亡くなったのではないかと思って、許される限り、手を合わせているって」
『そう』
「そこで聞いたの。ここに住んでいた豪商の主は、吉原の女と恋に落ちた。あなたでしょ? 違う?」

 女は一度、空を見あげ、しばらくそのまま見つめていた。が、ゆっくりと顔を二人に向け、口を開いた。

『信じちゃいなかった。惚れた腫れたって騒ぐ男ほど本気じゃない。色の世界じゃ当たり前の話さ。そんなこと、わかってる。恨んでいるのは男じゃないよ』
「あなたを閉じ込めた、恋人の身内ね?」

 女はツンとソッポを向いた。

「聞かせてはもらえない? なにが起こったの?」
『今更、言ってどうなるんだい。無用のことさ。あたしはずっとここで、あたしを殺したヤツらを呪ってやるんだから』
「教えてもらえませんか?」

 克弥が割り込んだ。女が、え? という顔をした。

「最初は菜緒子をあんな姿にしたって腹も立った。それに恨みって聞いて怖かった。だけど事情を聞いたら気の毒で、俺まで辛くなる。教えてください。俺が代わりに謝るから」

 女は怒ったように克弥を睨んだが、ゆっくりとその口元を歪めて嘲笑した。

『いいよ。その代わり、あんたさぁ、あたしと一緒に成仏してくれるかい? あはははっ、そんな根性ないだろ? だったら偉そうに、代わりに謝るなんていい加減なこと、お言いでないよ!』

 怒鳴った女の気迫が風圧を伴って克弥と紗子に吹き荒れた。両腕で顔を隠して風圧に耐える。克弥は一度紗子に顔をやった。研ぎ澄まされた鋭い刃物のような気配を纏う紗子の姿を見、腹を括った。

(先生なら、きっと俺を守ってくれるはずだ。先生を信じるんだ。ここでこの人を納得させて成仏させなければ、どっちみち、解決しないんだ!)

 腹に力を込めた。

「いいですよ。洗いざらい話してくれたら、俺、あなたと一緒に成仏してあげます」
『嘘だろ?』

 克弥は動揺する女に勝機を感じた。

(いける!)

 そう胸の内で叫び、噛み締めるようにゆっくりと続けた。

「俺はあなたの好きだった男じゃないけど、俺が一緒なら成仏できるって言うなら、一緒に逝きます。だから、なにがあってあなたがあんなに恨んで、呪っていたのか教えてください。お願いします」

 女は困惑を浮かべ、口を噤んでいる。食い入るように克弥を見つめていた。そこにすかさず紗子が口を挟んだ。

「あなた、名前は?」
『春音《はるね》』
「春の音? 素敵な名前ね」
『そうかい?』

 女――春音は少しはにかみ、視線を逸らした。その瞬間を逃さず、紗子は囁いた。

「彼女の注意を引いて」

 克弥は頷き、春音に話しかけた。春音の視線が克弥に向けられている隙に、紗子は紙に名を書き、それに呪文を掛けて飛ばした。護符は鳥になって浄閑寺に飛んでいった。名がわかれば住職の弔いの力にさらなる効力をもたらすはずだ。

「春音さん、恋人の名前は?」
『定幸《さだゆき》』
「結婚を約束していたんですよね?」

 春音は寂しそうに頷いた。

『定さんは洗練された、物腰のいい粋な男だった。それに比べてあたしは吉原の女で、いつまでも上にあがれないダメな女だった。だから定さんの相手だなんて身の程知らずだとわかっていたんだ。何度も求められたけど、断り続けた。だけど……誰も祝ってくれないあたしの誕生日、どっからか調べて、祝ってくれたんだ』

「誕生日?」

 克弥に向けコクリと頷くと、ポトリと一つ、滴が落ちた。克弥にとっても『誕生日』という言葉は胸に響いた。そして菜緒子の笑顔を蘇らせた。

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