僕の月

太陽

夜中に自分の歯ぎしりで目の覚めた僕は、理由のない動悸と高揚で、布団を蹴り飛ばした。スマホの画面には一月二十八日と表示されている。起き上がって窓の外を見ると、ちらつく雪が街灯に照らされていた。僕は真冬の夜にスマホと車のキーだけ持って飛び出した。寝起きのまま飛び出したためにまだ意識ははっきりしていない。
エンジンをかけて暖房をつける。まだ少し冷気の混じった風が吹き出し、ぶるっと身震いした。アクセルを踏み、考える間もなくハンドルを切る。道中でコーヒーを買って小一時間ほど山道を走ったところで車を泊めた。助手席に投げてあった黒いダウンを羽織って外に出ると、途端にめがねが曇る。ボサボサの前髪をかき上げ、冷たい空気を肺に吸い込み、思いっきりむせた。
緩やかな芝生の坂道を登るとその展望台はある。木製の百二十センチ程の柵に囲まれて、ベンチと屋根が備えられている。どこにでもある作りだが、ここから見える景色は、他の何にも言い表せないほどの絶景なのだ。真下には底の見えない渓谷があり、そこからごうごうと滝の音が聞こえる。その音を響き渡らせんとするかのように奥深く広がる木々。海を挟んだ先には、まるで天界からの使者が降り立ったかのように煌びやかな工場街が見える。
「ああ、綺麗だ。」
思わずそうつぶやいた。
ライターでたばこに火をつけ、柵に上半身をあずける。どのくらい時間がたったのか、気づけば缶コーヒーはからになっている。遠くの空が白んできた。もう朝かと時計を見て、次の瞬間僕は柵に足をかけてゆっくりとその力を抜き、乗り出した上半身へと体重をかけていった。

「何やってんの。」
十年前、放課後に僕は高校の屋上で、そこそこ高いフェンスをよじ登ろうとしている同じクラスの女子を見つけた。声をかけると、特に慌てた様子もなく、
「あー、ちょっと登りたくなってね。ここ、結構高いじゃん。見下ろしてみたら壮観かなと思って。」
そう答えた。誰だって分かるような下手な嘘をひょうひょうとつくものだから思わず信じてしまいそうになった。それに彼女は、そこから飛び降りようとするような人間には見えなかったから。相沢沙夏。クラスで誰とも話さず、根暗な僕でも名前を知っているような明るく人気のある人だ。
後になって事の重大さに気づく。僕は彼女のそれを止めてしまったのだ。悪気は無かったが、条件反射とでも言おうか。ただ、それにかこつけて責任をとらされたり何かと悪評を広められても迷惑だ。
「すまない。何か事情があったんだろう。僕はもう行く。」
面倒事に巻き込まれる前にその場を去ろうとした。しかし、
「いやいや。それはさすがに冷たすぎない?三崎君。せめて話くらい聞いてくれてもいいんだよ。」
やはり飛び降りようとしていたのか。笑いながら引き留められたときには、時すでに遅しだと悟った。だがそれよりも驚いたことがあった。
「え。」
思わず声が漏れた。
「何驚いてんのさ。ちょっとだけ話聞いてよ。」
「いやそこじゃない。名前、知ってるとは思ってなくて。」
「当たり前でしょ。普通クラスメイトの名前くらい知ってるよ。」
僕はクラスメイト全員なんて覚えてないけど。
「へえ、そう。」
「で、何で三崎君は屋上に来たの?ここ、立ち入り禁止でしょ。」
自分のことは完全に棚に上げている。突っ込みたいところは多々あった。
「たまたま相沢さんが屋上に行くのが見えて、ちょっと心配で追いかけてきた。」
苦し紛れの言い訳をする。
「そう?でもさっきスルーしようとしたよね。」
それに関しては触れないでほしかった。
「なるほどねー。私が気になって追いかけてきたのかー。てか私の名前も知ってるじゃん。何だよー。」
「だって君は目立つでしょ。知らない人なんかいないと思うけど。」
「ふーん。」
にやにやしながら僕の顔をのぞき込む。おちょくられているのだろう。さっきまでフェンスをよじ登ろうとしていた人間には見えない。
「それで話って。」
「そうそう。友達とけんかしちゃってさー、むしゃくしゃして反動でここに来ちゃったんだけど、ちょっと腹立つから愚痴聞いてくれない?」
「どうせ拒否権無いだろ。」
「もちろん。あのさあ、」
彼女はそれから友達と大げんかした経緯を僕に話した。ほとんど聞いていなかったが、まあ要するに彼女が友達との約束をすっぽかしたのが悪いのだろう。そこから大げんかになったらしい。それだけで飛び降りようとするわけが無いのだが、深く追求しないようにした。おそらく言い訳だろうから。それに僕も、彼女と同じ事をしようとここに来たわけだし、何も言えなかった。それから彼女とは時々屋上で会って話をするようになり、互いのことを知っていった。
相沢沙夏。十六歳。小学生の弟と妹がいる。両親は海外出張中で家にいないため、幼い弟妹の面倒は彼女が見ているらしい。好きな物は甘い物、嫌いな物は無い。血液型は確かB型。誕生日は八月二十日。何回も屋上で会うたびに自己紹介されたからさすがに覚えた。僕のことなんか知ったところでおもしろくないと何度か断ったが、しつこく聞いてくる。
「三崎宗一郎。十六。一人っ子。嫌いな食べ物は甘い物。好きな物は特にない。血液型はA型。誕生日は二月十五日。」
しぶしぶ答えると、彼女はうつむいて肩をふるわせていた。
「はははっ。なんか、見た目通り過ぎて面白いね。」
人の自己紹介を聞いてここまで笑えるやつもそんなにいないのではないか。
「ばかにしてんのか。」
「ふふっ。違う違う。じゃあ、好きな女の子のタイプは?」
「特にない。好きになった人だ。」
「へー。意外とロマンチックなところあるんだ。」
「うるさい。」
やっぱりからかわれている。しかし、昔から他人に良い印象を持たれることの無い僕は彼女が僕を知ろうとしてくれたことが嬉しかった。
「もー、素直じゃないな。なんかさ、私達って、正反対だよね。」
その通りだ。何も持っていない、暗くて友達のいない僕と、明るく人気のある彼女。本当に共通点がない。あの日飛び降りようとしていたこと以外は。

一ヶ月前、僕はこの世でたった一人の友人を失った。一月の雪の降る日だった。彼とは中学の頃、図書館で本を読んでいたときに出会った。
「それ、谷崎潤一郎の細雪でしょ。俺も前に読んだよ。」
そう話しかけてきたのが彼、東雲冬樹だった。上履きの色が青いから一学年上だ。きっと部活前に本を返しにでも寄ったのだろう。バスケのユニフォームを着ている。
「ああ、はい。」
「名前は?」
「三崎宗一郎です。」
「俺は東雲冬樹。敬語使わなくていいよ。それよりさ、時々何か書いてるよね。もしかしてだけど小説だったりする?俺も良く来るから見かけるんだよ。」
「まあ。」
「へえ。すごいね。じゃあ将来は小説家になりたいとか?」
「いや、そんなに才能は無いよ。それにそこまで熱中している訳では無い。」
「そうか。でも君の小説読んでみたい。だめか?」
「大して面白くない。それに恥ずかしいからよしてくれ。」
「なんでさ。誰にも見せないよ。笑わないし。感想、聞きたくないか。」
そう、まっすぐな目を輝かせるものだからいいよと答えてしまった。次の日、原稿四十枚ほどの内容を一晩で読んだらしい冬樹は、少し興奮気味に、
「宗一郎、お前才能あるよ。絶対。とても面白いじゃないか。早く続きが読みたい。」
そう言った。正直、素直に嬉しかった。普段、ぴくりとも動かない表情筋がこのときばかりは緩んでしまったのを覚えている。
「ありがとう。」
「なあ、また続きが書けたら教えてくれよ。俺、楽しみにしてるから。」
そのときの彼の笑顔は今でも忘れられない。僕は小説が書ける毎に会いに行き、冬樹とは一緒に食事をしたり遊びに出かけるようになった。
ある日二人で本屋に立ち寄り、色んな本を物色していたとき、冬樹が一冊の本を見つけて立ち止まった。
「なあ、この本知ってるか?俺、この本大好きでさ、小さい頃からよく読んでたんだよな。これこれ。『君と雪解けの日に。』小野裕一郎。十年前だっけ、芥川賞取ってた。」
本屋には必ずこの人の本が置いてある。当たり前だ。僕がこの世で一番この人のことを、
「知ってるよ。」
「え!本当か、読んだことあるのか?」
「ああ。」
いやになるほど何回も読み返した。
「本当、すごいよな。この本って確か自分の息子を思って書いた本らしいぜ。相当大事にしているんだろうな。なあ、お前もそう思わねえ?・・・って、宗一郎、どうした。急に黙り込んで。」
「いや、何でも無い。それよりもう本屋は出ないか。映画館にでも行こう。ちょうど観たいやつがあったんだ。」
少しあからさまだったかもしれない。
「いや、なにかあったんだろ。どうした、話してみろよ。この本がどうかしたのか。もしかしてお前がこの本に出てくる息子だったりして?ははっそんなわけ無い、よな。」
いつもは鈍いくせに、こういうときだけ妙にこいつは鼻がきく。
「え、そうなのか?じゃあお前の父さんって、小野裕一郎?まじかよ!すごいじゃん。だからお前も才能があるんだな。そっかー、てかそうだったらそうだって言えよ。あっ、今度サインもらってもいい?」
無理だ。ここ五年間あいつとは顔も合わせていないし、どこにいるのかすら分からない。会いたくもないのだが。まさか冬樹がこいつのファンだとは知らなかった。完全に盲点だ。
「すまない。それはたぶん無理だ。僕は父とそこまで仲が良く無い。」
「ええ、でもこんな本を出したくらいだし、お前のこと大切に思ってると思うぜ。それにしてもすごいよな、こんな偶然あるんだ。なあ、一回でいいから会わせてもらえないかな。お願いだよ。」
やめろ。もうあんなやつ思い出したくもないんだ。お前の口から聞きたくない。
「いい加減にしてくれ。」
「なんでだよ。じゃあサインだけでも頼めないか。」
「もう黙ってくれ。この話はやめよう。」
「なんでお前怒ってんの。何か気に障ること言ったか。親父さんはお前のこと絶対好きだって、だったら、」
「黙れって言ってんだろ。僕の前で今後一切そいつの名前を口にするな。」
自分の怒鳴り声にハッとした。今のは言い過ぎた。仮にも冬樹の好きな作家のことをここまで否定しなくても良かった。
「なんだよ。意味わかんねえ。親父さんがこんなにすごい人なんだ。普通に誇りに思うだろ。」
まだ言うか。僕はやるせない怒りと悔しさがこみあげてきた。
「帰る。」
「あ、おいちょっと待てって。なあ、理由くらい説明してくれてもいいだろ。」
肩をぐいっと掴まれた僕は、反動で冬樹を突き飛ばしてしまった。その時、冬樹は足首を捻ったらしい。その場でうずくまり、動けなくなっていた。僕は色々な感情がごちゃごちゃになり、耐えきれなくなってその場から逃げ出した。

次の日、僕は学校の廊下で松葉づえをついている冬樹とばったり鉢合わせた。頭が真っ白になり、冬樹を見るなり無視して走り出した。それから冬樹とは全く話さなくなった。彼はバスケの推薦で高校入学が決まっていた。なのに入学前のアクシデントがあったせいで彼の入学は取り消されるのではないか。そう思ったら余計に彼に会うのが気まずくなってしまった。パソコンに何件も冬樹からメールが来ていたが、全て無視した。喧嘩と、自分が冬樹にしてしまった事への罪悪感が押し寄せてきて、メールを開こうにも開けなかったのだ。
それから二年がたち、僕は高校生になった。冬樹は怪我が回復し、無事に入学できたらしい。冬樹が行くと言っていた高校のホームページに、バスケで全国優勝を果たした冬樹の写真があった。あの時と何も変わらない笑顔でトロフィーを掲げている。少し安心した。
その年の冬だった。冬樹から急にメールが来た。今更なんだろうと思い、気になって開いてみた。
『宗一郎。元気にしてるか。あの時お前に無神経なこと沢山言ってしまってずっと謝りたかったんだ。ごめんな。俺の足は大したことなかったから、安心しろよ。お前のことだからどうせ、罪悪感で俺のこと避けてたんだろうな。よかったらまた会いたいと思って連絡したんだ。今週、どこか暇だったら予定教えてほしい。連絡待ってる。冬樹。』
そう書いてあった。僕は、会いたくて仕方なかった。全国優勝のおめでとうも言いたかったし、最近になって少し書き進めたあの時の小説の続きもまた読んでほしかった。だから、今週の土曜なら空いていると連絡した。心臓がバクバクして、土曜が待ちきれなかった。
そして、土曜日。僕は出かける準備をして、原稿を鞄に詰めた。デートでもないのに鏡で全身をチェックしたりして玄関の扉を開いた。

「久しぶりだな。宗一郎。」
そこには、ずっと会いたかった人の姿ではなく、これからも会いたくなかったやつの姿があった。
「なんで帰ってきたんだよ。親父。」
「五年ぶりの再会だってのに冷たいなあ。俺はお前に会えるのを楽しみにしてたんだけど。」
「どけよ。今から大切な予定があるんだ。あんたと駄弁っている暇はない。」
「まあ待て。今から俺と一緒に来てもらうよ。会わせたい人がいるんだ。」
「無理だ。もう行く。わざわざ帰ってきてもらってすまないが、あんたに付き合う気はない。」
「お前の母さんだ。ついて来い。」
僕は正直混乱した。幼いころ、この男と離婚した母さんとはずっと会っていない。というより、会わせてもらえなかったのだ。この男が浮気を繰り返し、挙句の果てには母さんが病気になって手術をした日に、自宅に女を招いていた始末だ。それで母さんは精神を病み、実家に帰されたという。皮肉なことにこの男にそっくりに生まれた僕の顔を見ると母さんは過呼吸を起こしてしまっていた。
「明日、由美子は再婚相手と一緒に東京に移り住むらしい。お前と会いたいと本人から連絡があった。もう会えなくなる。今日が最後だよ。」
「分かった。」
冬樹にメールをし、父の運転する車に乗り込んだ。
母に会い、感動の再会というような空気でもなかったが、顔を見ることができてよかったと思った。その日の夜、冬樹からまたメールが来た。
『宗一郎、じゃあな。』
少し不自然なメッセージだと思ったが、その時は大して気に留めなかった。だが次の日、僕は心の底から冬樹に会いに行けばよかったと後悔した。
彼は真冬の電車のホームで、線路に飛び込んで自殺したのだ。一月二十八日。冬樹の誕生日。原因は、部活内でのいじめだった。一人、レギュラーとして活躍する彼が疎ましかったのだろう。同級生からのいじめだったそうだ。きっと、冬樹は助けを求めて僕に連絡してきたのだ。僕があの日会いに行っていれば、話を聞いてやれば、冬樹は死なずにすんだかもしれない。そう思うと涙があふれて止まらなかった。何度か冬樹の家に遊びに行ったことがあったため、彼の母親とは面識があり、彼の死は電話で直接知らされた。
それから一週間ほど経って、ふと僕は今まで見ていなかった冬樹からのメールを開いた。
『宗一郎、元気か。俺は無事にバスケ部に入ってレギュラーになったよ。』
『そういえば、あのとき借りた本、返してなかったな。お前が返してほしいときに帰しに行くよ。』
『最近、部活で嫌なことがあったんだ。ちょっとだけ話聞いてくれないか。』
『今日、お前の好きそうな本を見つけたんだ。よかったら届けに行きたい。』
そんなメールが続いていた。やはり少し、部活のことについて書かれていた。そして、連絡が途絶える前の最後の一通。
『宗一郎、今日バスケのインターハイで全国優勝したんだ。』
泣きすぎて目眩がしてふらつき、パソコンのマウスに少し手が当たった。その時、最後のメールには続きがあることに気が付いた。ゆっくりと画面をスクロールしていく。そこにつづられた一文に僕は、絶望し、床にはいつくばって嗚咽を漏らした。
『宗一郎、助けてくれ。』
僕は世界で一番大切な人を、自分のせいで失ったのだ。

それから僕は学校に行かずにずっと部屋に引きこもり、食事もまともに取らなかった。そして一か月後、罪悪感と喪失感に耐えきれなくなった僕は、自ら命を絶とうと屋上に上ったのだった。
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