シロツメクサの約束~恋の予感噛みしめて~
第一章
第一章
――痛い、いたい、痛い。
私、稲美奈穂(いなみなほ)は痛む右頬を押さえて、小走りで自宅近くの歯科医院に急いでいた。
午前中は平気だったのに、午後になって急にずきずき痛み出した右奥の親知らず。なんとか我慢して勤務を終えた後、さらに痛みが増した。
時計を見るとぎりぎり診察に間に合いそうだ。
小さいころに通っていた顔見知りの近所の【かみかわ歯科】に駆け込んだ。初めての歯科医院より慣れた先生にみてもらうほうがいいと思ったのだ。
「すみません、まだ大丈夫ですか?」
涙目で訴えかけた私を、受付の女性は気の毒そうに見る。
「本日の診察は終わってしまいました。ごめんなさい」
「そんなぁ」
絶望していい歳なのに泣いてしまいそう。思わず待合室の椅子に座り込んだ。
「ごめんなさいね」
受付の女性は申し訳なさそうに眉を下げている。
「いいえ。こちらこそ、時間外にすみませんでした」
彼女はなにも悪く無い。痛み出すまで放置していた自分が悪いのだ。
私が立ち上がって頭をさげていると受付の奥から、ひとりの男性が現れる。
紺色のクラシコに身を包んだ、短髪で長身の男性。
ずいぶん顔が整っているが、いかんせんずきずき痛む歯で感動する余裕もない。
「どうかした?」
「あの、急患のようなんですが……」
受付の女性が彼に説明をしている。
「わかった。診るよ」
「本当ですかぁ、本当に診てもらえるんですか?」
喜びのあまり思わず縋り付きそうになる。
「はい、問診票の記入お願いします」
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