吸血鬼令嬢は血が飲めない

「ーーーレギナさん、ここ本当に厨房?
なんだか変なにおいが充満してるけど…。」

「…しー!ラクリマ、静かに…!
物音立てないように…進んでくださいまし…!」

わたくしはラクリマの手を借り、何とかバートランド城の厨房に辿り着きました。
しかしここは「厨房」とは名ばかりの獣の穴ぐらのような場所です。
明らかに人間サイズではない、巨大な洗い場やオーブン、そして山のような肉挽き機。
獲物を血飛沫立てて豪快に調理する反面、掃除を怠るものだからあちこちから異臭が漂い、割れた皿の破片やゴミもそのまま。作業台の上に置かれた大きなカボチャやチーズは何年物なのか、黒いカビを纏っています。決して衛生的とは言えない環境です。

「こんなに広いのに、誰もいないのかしら?」

ラクリマが疑問に思うのも当然。
この厨房には足りないものがあります。それは他ならぬ、料理長です。

我が父が眠りについたとたん、料理長は腕を振るう気を無くしてしまいました。
わたくしは昔から血が飲めないので、基本的に料理長お得意の“レア料理”を口にしません。実に100余年、料理長は仕事をサボっているのです。使用人としては長すぎる休暇だわ。

「………。」

その間わたくしに、血肉の代わりとなる栄養満点の料理を作ってくれたのは、他でもないスアヴィスでした。
彼がいなかったら、健やかな今のわたくしはいない。

「…スアヴィス…。」

急に気持ちが寂しくなって、わたくしはしょぼくれます。
聖水に焼かれた彼の羽…。とっても、痛かったでしょうね…。

「……。」

けれどそれは、目の前のラクリマが、わたくしを助けたい一心でしたこと。その気持ちは純粋に感謝です。

「…ラクリマ、さっきはありがとうございましたわ。おかげで助かりました…。」

「え?えへへ、いいのよ。
レギナさんが無事で良かった!」

屈託なく笑いかけるラクリマに、わたくしもぎこちない笑みを返します。

わたくしは牛乳が保管されている戸棚の扉を開きます。
厨房全体は荒れ放題ですが、ここはわたくしの常飲する牛乳の保管場所ですから、比較的汚れは少ないものでした。

「さあ、これはごく普通の牛乳………のはずですわ。あなた達もどうぞ。」

「じゃあ、お言葉に甘えて!」

ブリキの缶を抱えられるだけ多く取り出し、ラクリマとニクスにも一本ずつ渡します。
恥ずかしいのでラクリマに見られないよう顔を逸らして、わたくしは牛乳をお腹に流し込みます。
まろやかな美味しさが口いっぱいに広がり、空腹と、貧血が少しだけ和らぎました。

ラクリマが牛乳を飲む控えめな音と、ニクスが舐めるぴちゃぴちゃという音。誰かと一緒に食事をするなんて、本当に久しぶりです。
異臭漂うこんな環境でなければ、安らぎのひと時となったかもしれないのに。

「……はあっ、お待たせしましたわ。
どうもありがとう!」

口元を拭いながらラクリマを見ます。
しかし、彼女はわたくしの方を見ていませんでした。怯えた目はある一点を凝視したまま動かない。それはニクスも同様で、やや遠くを見上げて小さく小さく唸っています。
わたくしは何度目かも分からない嫌な予感を覚え、ラクリマ達と同じ方向を見遣りました。

同時に遥か高い位置から、教会の鐘ほどの大きさの、金属製の肉叩きが降ってきました。

「危ないっ!!」

わたくしは二人に体当たりして、間一髪肉叩きの攻撃を避けました。
たった今わたくしが座り込んでいたタイルの床は、肉叩きの一撃を受けて無惨にも破壊されます。床の抜けた大穴の中へ、牛乳缶が何本も落ちていきました。

「な、なに!?」

次の二撃目が降りかかってくるのを、今度は三人とも別方向に飛んで避けました。

「……や、やめ!やめなさいクラテル!」

わたくしは金切り声を上げました。
大声を出さないと、今まさに我々を退治しようとしている、大男クラテルには聞こえないと思ったからです。

肉叩き攻撃がピタリと止んだおかげで、わたくしはクラテルの姿を見上げることができました。

「…ひいぃ!!」

いつ見ても、なんというインパクト。
体長5メートルはある巨大な吸血鬼コックです。エプロンのあちこちに赤茶色の汚れを染み込ませ、土気色のパンパンに膨れた顔の中にある、小さな小さな赤い目が、わたくしのことをじろりと睨んでいます。
『コープス・フォート』で幾度となくヒロインを苦しめた、トラウマ級の中ボスです。

「……誰だぁ…おれの神聖な厨房に忍び込んだのは…?お嬢様みたいな格好しやがって…。」

「!?」

クラテルの言葉を聞き、わたくしではなくラクリマがギョッとします。

「……お、“お嬢様”…?」

わたくしの背筋がひんやりとします。
クラテルは今、間違いなくわたくしに対してお嬢様と言った。

クラテルは小さな目を一層細めて、わたくしとラクリマと、猟犬ニクスのことを品定めします。

「…ちょうど良い。メインディッシュに困ってたんだぁ。
いつご主人様が目覚められてもいいように…ご馳走を準備しておかねぇと…。」

「わ、わたくし達を食べる気!?
ゆ、ゆ、許しませんわよ!」

クラテルはわたくしの言葉に耳を貸しません。聞こえていないのか、敢えて無視しているのかは分かりません。
丸々とした大きな手は、わたくしには目もくれず、ラクリマとニクスを容易く捕らえます。

「きゃっ!?」

「人間の娘は甘くて美味いんだよなぁ。
ご主人様も、人間の子どもの血が大好物だった…。
メインはこれのレアステーキにしよう。」

「!!」

ラクリマが、クラテルの手の中で身を捩ります。
しかし強い力が込められているのか、拘束を解くことも、聖水を取り出すこともできずにいます。

「…ガァウ!」

ニクスが牙を剥いて、クラテルの手に噛みつきます。
…しかしそれも、巨人クラテルにとっては痛みにさえ感じませんでした。

「……た、大変……!」

わたくしはこの光景に見覚えがあります。
汚らしい厨房を彷徨い歩くヒロイン。しかし運悪く巨人の料理長に見つかると、その太い指に捕まってしまい、ヴァンパイア・ロードのメインディッシュにされる…。

ーーー間違いない…これ、バッドエンドルートですわ!!

「活きが良い獲物は…新鮮なうちに…料理しねぇと…。」

「…や、やめてクラテル!!」

わたくしは蝙蝠の羽を広げて飛び上がります。
一瞬の躊躇はありました。なぜならラクリマに、わたくしの正体を知らしめるようなものですから。

しかしバレることを恐れて何もせずにいたら全滅してしまう。
わたくしは調理台の上にあった巨大なカビカボチャを持ち上げ、クラテルの頭目掛けて投げつけます。

ぐちゃ、という鳥肌モノの音がして、カボチャは無惨に潰れました。
その下のクラテルは、なんということでしょう…悲しいくらいに無傷でした。

「…うっ、うーん!」

ラクリマは苦しげに顔を歪めています。
どうしよう、どうしよう、わたくしに何が出来るの…?
アワアワとパニックに陥るわたくしは、ほぼ無意識に、最後に残った頼みの綱の名を叫びました。


「…ス、“スアヴィス”!!助けてっ!!」


わたくしの叫びとほぼ同時でした。
ラクリマ達を捉えるクラテルの太い腕が、浅黒い綱のようなもので突如締め上げられたのです。あれは本来ブロック肉に巻きつける凧糸ですが、それが今は、ハムに似たクラテルの腕に巻きついています。

クラテルの腕を縛り上げた張本人が、ふわりと頭上から舞い降ります。
クラテルが至極怯えきった顔で、その吸血鬼を呼びました。

「……し、執事長……。」

スアヴィスでした。
大きな蝙蝠の羽には痛々しい火傷痕が残っているものの、飛行には支障ないようです。真っ白な手袋を付けた手で綱を握り、クラテルの腕を的確に押さえつけています。

助けを呼んだ手前、わたくしは新たな問題を抱えることに。
今更どの口が、スアヴィスに助けを求められるのでしょうか?だって彼に対して、裏切りとも呼べる行動を取ったのに。

「……あ、…あの、スアヴィス…。」

「……。」

スアヴィスはわたくしに構うことなく、クラテルのことを冷めた目で見下ろし、淡々と言うのです。

「…クラテル。その娘はご主人様にお出しするには問題ですね。
…分かりませんか?それには“毒”があるでしょう。」

スアヴィスは何を言っているのでしょう?
人間であるラクリマに毒なんてあるはずが…。

固縛によってクラテルの手の力が緩みます。
その隙間から、ラクリマは小瓶に残った聖水を、すべてクラテルの手に振りかけました。

「…えい!!」

「あぎっ!?」

クラテルは短い悲鳴を漏らし、反射的に閉じていた手をパッと開きます。
宙に放り出されたラクリマとニクスを、わたくしが慌てて飛んでキャッチしました。

「……レ、レギナさん…。」

ですが、やはりというべきでしょう。
ラクリマは何とも悲しそうな目で、わたくしのことを見ています。正確には、背から広がる一対の羽を。
わたくしはその視線から逃れたくて、クラテルの方を見ます。
手の平の大部分に大火傷を負ったクラテルは、痛みと怒りとでブルブル震えていました。

「…ど、毒だ!毒持ちめ!
危うくご主人様の晩餐に出すところだったじゃねぇか!許さねぇ!」

とんだ八つ当たりです。
怒りに任せて腕を振り回すクラテル。巨体に見合わずその動きは俊敏で、わたくしはラクリマとニクスを抱えた状態で右へ左へ逃げ惑う。

そんな暴れ牛と化したクラテルを律することが出来るのも、執事長であるスアヴィスだけなのです。

「クラテル。貴方には100余年仕事を放棄していた分、相応のお仕置きを与えます。」

スアヴィスが涼しい顔で、手にした綱を強く引きます。
するとクラテルはまるで操り人形のように、その巨大な拳を床に叩きつけました。
地鳴りに似た音が上がり、老朽化の激しかった床はいとも簡単に崩れ落ちる。厨房の床下には何もない、奈落の空間が広がっていたのです。

「貴方の大好きなご主人様の元へ行きなさい。」

足場を失った巨大なクラテルはどうなるでしょう?当然重みのままに、その奈落へ真っ逆さまに落ちていくだけ。
悲鳴と、絶望に染まった顔が暗闇へ沈んでいくのを見て、わたくしもラクリマもゾッとしました。

しかしさらに震撼したのは、たった今クラテルを葬ったスアヴィスが、わたくし達のすぐ真後ろに迫っていたことだったのです。

「!!」

わたくしが振り返るより早く、スアヴィスはその広い手の平で、わたくしの背をトンと押しました。

「あっ!」

押された衝撃で、なんとか守ったと思っていたニクスと…ラクリマを、

「ーーーラ…っ!」

うっかり、手から落としてしまったのです。

クラテルが消えた奈落へと、ふたりが落ちていく様子がひどくゆっくりに見えました。
急降下して追いかけることもできたでしょう。

「…あ、あぁ……!」

しかし、わたくしはひどい小心者であることを忘れていました。
怪物すら飲み込むどこまでも続く暗闇が、とても恐ろしかったのです。
この奈落の底で眠る我が父の存在が、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったのです。

わたくしは顔を真っ青にして、声を上げることも忘れて、落ちていくラクリマとニクスをただ茫然と見つめていました。

そんなわたくしの両肩に、冷たい両手がそっと触れます。

「捕まえましたよ、お嬢様。」

わたくしは何も言えません。
これから何が起きようと、何をされようと、わたくしには何もできない。今更、

「…もう、私からお逃げにならないのですね?」

まるで全身の血を搾り尽くされてしまったように、まったく気力が湧かないのです。
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