ひとりでママになると決めたのに、一途な外交官の極上愛には敵わない
「久しぶりだね」

 〝光陰矢の如し〟とはよく言ったものだ。

 まさにこの二年と八か月が私にとってのそれで、瞬きの合間に過ぎ去った気さえする。そのくせ、あの誕生日の夜ははるか彼方ほど遠く、どうかしたら夢かまぼろしだったと思えてくる。

 だけどあれは間違いなく現実だ。そう思える確かな証拠が手もとにあるのだから。

 無意識に口もとがほころんだとき、店の引き戸ががらがらと音を立てて開いた。

 いけない。今はぼうっとしている場合じゃなかった。

「いらっしゃいませ」

 入って来たお客に笑顔を向けてから、私、柚原(ゆずはら)さやかはエプロンの裾をひるがえした。厨房から揚がって来たばかりの唐揚げをガラスケースに補充する。

 四月に入ったばかりのせいか、今日は初めてのお客様が多いみたい。新生活が始まるこの時期は、新たな常連客を得る絶好のチャンスだ。ぼんやりしていて失敗などできないと気を引き締める。

「ご注文はお決まりですか?」

「本日のおすすめは、春キャベツの回鍋肉、サワラの竜田揚げ、若竹煮、となっております」

「数量限定チキン南蛮、ラスワンです!」

 次々とやってくるお客に順番に注文を聞き、迷っている人にはさりげなくおすすめを案内し、合間に弁当パックにご飯やおかずを詰める。

「お待たせいたしました、ハンバーグ弁当ポテサラミックスです。ありがとうございました」

 最後にやってきた作業服の若い男性に笑顔を向け、弁当の入ったビニール袋を手渡したところでやっと客足が途切れた。
 ほうっと息をついて横の壁にかかる時計を見あげたら、短い針が『2』になろうとしている。もうこんな時間。厨房を振り返って口を開く。

「おじいちゃーん、そろそろ休憩に入ってね」

 顔を上げて時計を見た祖父がうなずく。「じゃあ頼んだぞ」と言って厨房の奥の扉から自宅へと入っていった。
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