ひとりでママになると決めたのに、一途な外交官の極上愛には敵わない
「でもこれだけは言わせて。一緒に子どもの面倒を見てくれる相手が欲しいなら他を当たってください。結城首席の時間は普通の人の何倍も価値があるの」

 有無を言わさぬ口調に凍りついた。

 子どものために彼と一緒にいるわけじゃない!

 そう言いたいのに言いきれない自分がショックだった。動物園に行ったときに、拓翔の面倒を見てくれる彼に甘えてしまったのは紛れもない事実だ。

 私は彼の貴重な時間を奪っているの? 足枷になりたくないからと、身を切られる思いで別れを選んだはずだ。それなのに今度は自分の都合で彼に寄りかかろうとしていたなんて。
 胸の内側から焼かれるような痛みが喉から這い上がってくる。

 泣いてはだめ。この素敵な場には喜びの涙以外ふさわしくない。

 奥歯を噛みしめ、込み上げたものを必死にのみ下す。
 彼女が言う通り、櫂人さんとこんなふうに会うのは、これっきりにした方がいいのかもしれない。そう考えただけで胸が苦しいほど締めつけられた。
けれど、きっとそれが正解なのだ。

『一番大事な人』と言ってもらえただけで十分。その言葉を宝物みたいに胸に抱えて、これまで通り祖父と拓翔と三人で生きていこう。

 両脇に垂らした手をきつく握りしめる。

「わかりました」

 静かに答えると、北山さんが目を軽く見張った。すんなり引き下がると思っていなかったのだろう。そんな彼女の脇を、頭を下げながら通り抜ける。

「では私はこれで」

 早く行かなきゃ。時間がかかりすぎたら櫂人さんが探しにくるかもしれない。すぐに戻って、急用ができたと言って先に帰らせてもらおう。

「ちょっと待って」

 背中から再び声がしたけれど、今度は振り返らない。確実に届いているはずの声に反応しないでいたら、草履の音が小走りに近寄ってきた。いったいまだなんの用があるというのだろう。

 急いで下まぶたに溜まった水滴を指で拭い、振り向いたその瞬間、すぐ脇の通路からな人影が出てくるのが目に飛び込んできた。銀色のトレーにドリンクを載せた給仕スタッフだ。北山さんからは大きなフラワースタンドの陰になって見えていない。

「あぶない!」

 あと一歩でぶつかるという瞬間、無意識に手が伸びていた。

 ガシャンと大きな音がエントランスホールに響きわたる。
 足もとに散らばったグラスを見ながら、二の腕と胸のあたりに冷たい感触が広がっていくのを感じた。
< 57 / 93 >

この作品をシェア

pagetop