ひとりでママになると決めたのに、一途な外交官の極上愛には敵わない
 つき合っていた当時、普段は頼りがいのある大人な彼が見せる飾り気のない笑顔に、何度も心をときめかせていた。そのことを思い出す。

「そんなことありません。仕事に集中するための糖分と栄養補給を兼ねている、ですよね?」
「ああ。覚えていてくれたのか」
「あ……」

 余計なことを口にしてしまった。これではまるで彼のことが忘れられなかったと告白しているようなものだ。

 でもその通りなのだ。

 本当は忘れられなかった。それどころか、ひとつ残らず忘れないように努力した。

 彼との別れがあまりにつらくて、いっそ出会ってからのすべてを忘れられたらと思ったこともある。
 だけど拓翔がお腹にいることがわかり、彼のことはどんなこともすべて覚えていようと決めた。生まれてくる子に父親のことを語れるのは自分しかいないのだから。

 泣いてしまうとわかっていながら、自分を痛めつけるように思い出を反芻したことがよみがえり、きゅっと眉根が寄る。誤魔化すようにコーヒーカップに口をつけた。

「さやか」

 不意に呼ばれ顔を上げると、真剣な瞳と視線がぶつかった。

「もしかして北山となにかあったのか?」
「え?」
「仕事熱心なのは彼女のよいところだが、たまに行き過ぎて周りが見えなくなることがあるんだ。今回のパーティを仕事がらみだと思っていたようだから、なにか余計なことを言ったんじゃないかと思って。最初に会ったときも失礼な態度を取っていたし」

 櫂人さんの言ったことはおおむね当たっている。北山さんのことをよくわかっているのだろう。毎日同じ職場で働いているのだから当然かもしれない。
 そう考える一方で、お腹のあたりでじりりと焦げるような感覚がした。

「せっかくパーティに参加してくれたのに、不快な思いをさせたなら俺からも謝るよ。すまな――」
「やめてください」

 反射的にそう口にしていた。驚いた顔をした櫂人さんから目を逸らし、手に持っていたカップをソーサーに戻し立ち上がる。

「さやか?」

 怪訝そうに呼ばれたが、顔を上げられなかった。

 櫂人さんが言いたいことや謝罪の意図は理解できる。でも、どうしてもそれを聞きたくなかった。

「北山さんは関係ありません。ワインを被ってしまったのは完全に自分の失敗です。不快なことなんてなにもありませんでした。櫂、――結城さんにはせっかくお誘いいただいたのに、不要なご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

 うつむいたまま声を絞り出し、深々と頭を下げる。彼がなにか言うより先に「失礼します」ときびすを返した。
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